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トマト

夢中になっていること

トマト

朗読で聴く

第一章 畑

七十四になった。

夫は、去年の春に、死んだ。

裏庭に、夫の畑がある。

二十メートル四方の、畑だ。

夫が、三十年、作っていた。

トマトと、豆と、玉ねぎ。

こちらは、三十年、畑に、入らなかった。

台所で、採れたものを、切っていた。

台所の窓から、畑の夫が、見えた。

背中を丸めて、土を見ていた。

何を見ているのかを、聞いたことが無い。

聞かなくても、毎日、台所に、赤が置かれた。

置かれたものを、切った。

切って、食べた。

それが、三十年、こちらと畑の、関係だった。

夫は、赤を、こちらの前で、もがなかった。

畑で赤いうちは、夫のものだった。

夫が死んで、畑が、残った。

残った畑に、四月、こちらは、入った。

入って、トマトの苗を、植えた。

夫が、毎年、植えていた場所に。

植えてから、毎朝、畑に出ている。

朝の六時から、昼まで。

昼を食べて、また、出る。

夕方まで、畑にいる。

畑にいるあいだ、こちらの目は、トマトにしか、行かない。

トマトは、夏に、赤くなった。

赤くなったトマトが、畑の中で、一つだけ、色を持っている。

ほかは、灰色だ。

家も、道も、隣の家も、灰色だ。

灰色の中に、赤がある。

赤を見るために、朝、起きる。

夫が死んでから、初めて、朝に、理由ができた。

第二章 息子

息子夫婦が、月に一度、来る。

来て、家の中を、見る。

家の中は、去年のままだ。

掃除は、している。

しているが、それだけだ。

息子が、言った。

母さん、家の中のこと、少しは、しなよ。

しなよ、というのは、こちらが、していないということだ。

していない。

夫の服も、そのままだ。

夫の椅子も、そのままだ。

息子は、父の椅子に、座らない。

座らない椅子を、こちらは、片付けない。

そのままにしているのではなく、目が、行かない。

目は、畑に、行っている。

畑にいないときも、畑のことを、考えている。

考えているあいだ、家の中は、灰色だ。

灰色のものは、片付かない。

片付かないことを、息子は、心配している。

心配している顔を、こちらは、見た。

見て、そう、と言った。

言って、また、畑に出た。

息子の妻は、何も言わずに、台所の窓から、畑を見ていた。

見ている顔を、こちらは、あとで、思い出した。

あの顔は、三十年前の、こちらの顔だった。

第三章 赤

夢中になっている、と、息子の妻が、言った。

お母さんは、畑に、夢中なのね。

優しい声だった。

夢中、という言葉を、こちらは、その日、初めて、自分に、当てた。

当てて、そうかもしれない、と思った。

七十四で、夢中というものが、来た。

三十年、畑に入らなかった人間に、来た。

来たものを、こちらは、離せない。

離せないのは、赤ではなく、朝の理由のほうだ。

色は、増えない。

それは、分かっている。

赤に集めた分だけ、周りから、抜けている。

家の中が灰色なのは、色が、畑に行っているからだ。

息子の顔が薄いのは、色が、トマトに行っているからだ。

行かせているのは、こちらだ。

行かせていることを、知っていて、やめない。

やめると、赤が、無くなる。

赤が無くなったら、朝に、理由が、無くなる。

理由の無い朝を、去年の春から夏まで、こちらは、知っている。

あの朝に、戻る気は、無い。

あの朝は、六時に目が覚めて、起きる理由が無かった。

理由が無いので、八時まで、布団にいた。

八時に起きて、台所に立って、切るものが、無かった。

無いことを、毎朝、確かめていた。

確かめるだけの朝が、三か月、続いた。

四月に、苗を植えて、終わった。

第四章 道具

九月に、気づいた。

畑の道具が、新しくなっている。

鍬の柄が、新しい。

ホースが、新しい。

ホースの先の、水の出る口も、新しい。

古いのは、夫が、三十年、握った口だった。

支柱が、増えている。

こちらは、買っていない。

息子だ。

息子が、月に一度来るたびに、黙って、置いていった。

置いていったことを、一度も、言わなかった。

隣の家の人も、そうだった。

こちらが留守の日、水が、やってあった。

誰がやったかを、隣の家の人は、言わない。

こちらも、聞かない。

言わないので、こちらは、九月まで、気づかなかった。

気づいて、畑に、座った。

座って、しばらく、鍬の柄を、見ていた。

新しい柄は、灰色だった。

手に、まだ、なじんでいない。

なじむまで、息子は、言わないだろう。

灰色の柄で、こちらは、赤を、作っていた。

周りが薄いのは、こちらが、色を、抜いたからだと、思っていた。

違った。

周りが、色を、こちらに、渡していた。

渡した人は、渡したことを、言わない。

言わないので、薄くなる。

薄くなった分が、こちらの赤に、なっている。

集めたのでは、なかった。

渡されていた。

第五章 渡す人

夫も、そうだったのかもしれない。

夫の背中が、何を見ていたのか、いまは、分かる。

土の色だ。

三十年、こちらは、畑に入らなかった。

入らないこちらに、夫は、採れたものを、台所に置いた。

置いて、何も言わなかった。

言わないので、こちらは、それを、当たり前だと思っていた。

当たり前というのは、色が、薄いということだ。

夫は、三十年、薄いまま、こちらに、渡していた。

渡していたことを、こちらは、夫が死んでから、畑に入って、初めて、知った。

トマトが赤いのは、夫が、三十年、この土に、色を渡していたからだ。

こちらが、集めたのではない。

夫の色が、土に残っていて、こちらの苗に、上がってきた。

上がってきた赤を、こちらは、自分の夢中だと、思っていた。

半分は、そうだ。

半分は、夫と、息子のものだ。

半分ずつを、区別する方法は、無い。

区別できないので、こちらは、全部を、自分のものとして、赤にしていた。

無いので、全部、赤に見える。

赤に見えるものを、こちらは、明日も、見に行く。

エピローグ

朝、畑に出た。

トマトが、赤かった。

鍬の柄が、新しかった。

新しい柄を、握った。

握った手で、赤を、一つ、もいだ。

もいだ赤を、台所に、置いた。

置いて、何も、言わなかった。

台所の窓から、畑を、見た。

赤が、一つ、無い。

もいだのは、こちらだ。

言う相手が、いない。

いないところに、置いた。

夫が、三十年、していたことだ。

していたことを、こちらは、いま、している。

周りが薄いのは、こちらが抜いたからだと、思っていた。

半分は、そうだ。

半分は、周りが、渡してくれたからだ。

渡してくれた人は、渡したことを、言わない。

言わない人の色で、こちらの赤は、赤い。

それを知って、赤は、少し、重くなった。

重いほうが、朝、起きやすい。

軽い赤なら、去年の春に、こちらは、起きられなかった。

重くなった赤を、明日も、もぐ。

もいで、台所に置く。

置く相手は、いない。

いないところに、置く。

置いたものが、いつか、誰かの赤になるかどうかは、こちらには、分からない。

ソウルミッション358

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