赤い長靴
夢中になっていること

朗読で聴く
第一章 三歳
六十五になった。
孫が、三歳だ。
娘の子だ。
週に三日、預かっている。
娘が、仕事だからだ。
預かるのは、娘のためだ、と、最初は思っていた。
半年で、違うと分かった。
こちらのためだ。
朝、玄関で、孫が靴を脱ぐ。
赤い長靴だ。
雨でなくても、履いてくる。
脱いだ長靴を、玄関に、そろえる。
そろえると、玄関の中で、その赤だけが、色を持っている。
ほかは、灰色だ。
靴箱も、傘も、こちらの靴も、灰色だ。
灰色の中に、赤が、二つ、並んでいる。
それを見るのが、一日の、始まりだ。
始まってから、夕方まで、孫のことしか、していない。
公園に行き、砂を掘り、同じ絵本を、四回、読む。
四回目も、一回目と、同じ声で、読める。
読めることに、自分で、驚いている。
娘のときは、二回目で、声が、薄くなった。
孫は、こちらを、ばあば、と呼ぶ。
呼ばれるたびに、色が、増えた気がする。
気がするだけで、増えていない。
始まりが、六十五で、来た。
来るとは、思っていなかった。
娘を育てていたころには、来なかった。
来なかったことを、いまは、はっきり、覚えている。
第二章 娘
娘が、去年、言った。
お母さん、私のときは、そうじゃなかった。
責める声では、なかった。
ただ、そう言った。
そうだった、と、こちらは、答えた。
答えられることが、いちばん、悪かった。
娘のときは、色が、無かった。
三十二で、娘を、産んだ。
夫は、出張が多かった。
こちらは、一人で、娘を育てた。
育てるので、精一杯だった。
精一杯というのは、色が無いということだ。
全部が、同じ灰色で、忙しかった。
娘は、灰色の中で、育った。
娘が六つのとき、絵を、描いてきた。
こちらの顔を、描いたと言った。
見た、と思う。
どんな絵だったかを、覚えていない。
覚えていないということは、見ていなかったということだ。
あのころ、こちらの目は、どこにも、集まっていなかった。
集まらない目は、何も、色にしない。
娘の絵も、色に、ならなかった。
育って、灰色のまま、母になった。
母になって、自分の子が、こちらの色で塗られているのを、見ている。
見て、私のときは、と、言った。
言われたことに、答えは、無い。
無いので、そうだった、と言った。
第三章 赤
孫の長靴を、選んだのは、こちらだ。
娘は、黒でいい、と言った。
言ったとき、娘は、こちらの顔を、見ていなかった。
見ていないので、赤を買ったことを、あとで、知った。
赤を、買った。
店で、赤を手に取ったとき、手が、止まった。
止まったことを、覚えている。
娘のとき、こちらの手は、止まったことが、無い。
止まる時間が、無かった。
買った日に、孫が、履いて、玄関で、跳ねた。
跳ねた赤が、こちらの目に、入った。
入ったきり、出ていかない。
それから、赤が、玄関にあるあいだ、こちらの中には、赤しか無い。
娘が迎えに来る。
娘の顔を、見る。
灰色に、見える。
灰色に見えているのは、娘の顔が灰色だからではない。
こちらの色が、全部、赤に、行っているからだ。
娘に渡す分が、残っていない。
残っていないことを、娘は、知っている。
知っていて、迎えに来る。
来て、孫の長靴を、持って、帰る。
赤が、玄関から、消える。
消えたあとの玄関を、しばらく、見ている。
消えると、こちらは、灰色になる。
次の預かる日まで、灰色でいる。
第四章 増えない
色は、増えない。
それが、六十五で、分かった。
娘に渡さなかった色を、孫に、渡している。
渡している色は、娘のときに、こちらに無かった色だ。
無かったのではない。
あったのに、灰色の中で、使わなかった。
使わなかった色が、三十年、こちらの中に、残っていた。
残っていた色が、赤い長靴で、出てきた。
出てきた色を、娘は、見ている。
私のときには、出てこなかった色を。
娘は、薄いまま、それを、見ている。
薄いままにしたのは、こちらだ。
いま、孫を濃くするたびに、娘が、薄くなる。
薄くなっているのが、見える。
見えていて、やめない。
やめると、赤が、無くなる。
赤が無くなっても、娘の色は、戻らない。
三十年前に渡さなかったものは、いまから渡しても、届かない。
届かないことを、こちらは、知っている。
知っているので、孫に、渡す。
渡せるところに、渡す。
渡せるところは、一つしか無い。
一つしか無いところに、全部、行く。
全部行くと、周りが、薄くなる。
薄くなった周りの、いちばん近くに、娘がいる。
第五章 玄関
娘が迎えに来る時間、玄関に、立つ。
赤い長靴を、そろえて、待つ。
娘が、来る。
娘は、玄関の中を、見る。
赤い長靴と、灰色のこちらを、見る。
娘には、赤が、見えているだろう。
見えていて、それを、自分の子が履いていることを、知っている。
知っている顔で、ただいま、と言う。
ただいま、は、娘が、この家の子だったころの、言葉だ。
その言葉を、いまも、使う。
使う声が、薄い。
薄い声で、赤い長靴を、持ち上げる。
持ち上げた娘の手が、灰色だ。
その手は、こちらの手と、同じ形をしている。
同じ形の手で、娘は、自分の子を、育てている。
同じ形の手が、こちらの手と、同じことをしているかどうかを、こちらは、知らない。
聞かない。
聞くと、答えが、こちらの三十年を、言う。
灰色の手が、赤を、持っている。
それを、こちらは、毎回、見ている。
見て、何も、言わない。
言えば、色の話になる。
色の話は、三十年前から、しないことにしている。
しないことにしたのは、こちらだ。
エピローグ
娘が、この前、言った。
あの子、お母さんの家に行くと、明るいのね。
褒めたのだと、思う。
こちらは、そう、と答えた。
答えながら、娘が、あの子、と言ったことを、聞いていた。
あの子は、この家で、赤だ。
娘の家では、どうなのかを、こちらは、知らない。
娘の家に、色があるかどうかを、知らない。
こちらの色を、こちらは、娘の家に、渡していない。
娘の家の色は、娘が、自分で、作るしかない。
作れるかどうかを、こちらは、決められない。
こちらにできるのは、玄関に、赤をそろえることだけだ。
そろえた赤を、娘が、持って帰る。
持って帰った先で、赤が、どう見えるかを、こちらは、知らない。
知らないまま、次の預かる日を、待っている。
待っているあいだ、こちらは、灰色だ。
灰色でいる時間に、娘のことを、考える。
考えるだけで、色は、行かない。
行くのは、赤い長靴のほうだ。
行き先を、こちらは、変えられない。
変えられないものを、夢中、と、人は呼ぶ。
呼ばれても、こちらは、玄関に、赤をそろえる。
そろえながら、娘の六つのときの絵を、思い出そうとする。
思い出せない。
思い出せないものに、色は、行かない。
赤い長靴は、来年には、小さくなる。
小さくなったら、次の赤を、買う。
買う手は、また、止まる。
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