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木鉢

夢中になっていること

木鉢

朗読で聴く

第一章 四時

七十二になった。

三十八年、中学校で数学を教えた。

六十で辞めて、八年、何もしなかった。

六十八で、蕎麦を打った。

公民館の教室で、一度、打った。

それだけのはずだった。

教室で、粉に水を回したとき、手の中で、粉が、変わった。

変わる瞬間が、あった。

三十八年、教室で、生徒の顔が変わる瞬間を、待っていた。

待って、何度か、見た。

粉は、毎回、変わった。

毎回変わるものに、こちらは、初めて、会った。

次の朝、四時に、目が覚めた。

目が覚めて、粉のことを、考えていた。

考えているうちに、朝になった。

朝になって、粉を買いに行った。

それから、四年、毎朝、四時に起きている。

四時に起きるのを、妻は、止めなかった。

止めない代わりに、五時に、起きてくる。

起きて、打つ。

一日に一回、二人分。

妻と、食べる。

打ったものを、食べる人が、いる。

いることを、こちらは、あとから、思い出す。

妻は、うまい、と言う。

四年、毎日、言っている。

毎日言われると、言葉は、薄くなる。

薄くなっていることに、去年まで、気づかなかった。

気づかなかったのは、こちらの目が、粉と、水と、木鉢に、集まっていたからだ。

集まっているところには、色がある。

集まっていないところは、薄い。

妻の、うまい、は、薄いほうにあった。

第二章 朱

木鉢は、朱色だ。

漆で、内側が、朱に塗ってある。

教室で借りたものと、同じものを、買った。

高かった。

直径が、五十センチある。

五十センチの朱が、台所で、いちばん大きい色だ。

妻には、値段を、言っていない。

届いた日、妻は、箱を見て、何も言わなかった。

言わない顔を、こちらは、見なかった。

箱を開けるほうに、目が、行っていた。

いまなら、あの顔を、思い出せる。

思い出せるだけで、見てはいない。

朝の四時、台所の電気をつけると、木鉢の朱だけが、色を持っている。

ほかは、灰色だ。

台所も、流しも、窓の外も、灰色だ。

灰色の中に、朱が一つ、ある。

その朱に、こちらの目が、行く。

行ったきり、二時間、戻らない。

二時間、粉と水を、朱の中で、混ぜている。

混ぜているあいだ、こちらの中には、それしか無い。

それしか無いことが、七十二で、初めて、来た。

三十八年、教えていたときには、来なかった。

教えることは、大事だったが、色ではなかった。

色は、七十二で、朱で、来た。

来てしまったものを、こちらは、離せない。

第三章 薄い

色は、増えない。

それが、去年、分かった。

娘が、電話で、言った。

お母さんの話、聞いてないでしょう。

聞いていた、と答えた。

答えてから、聞いていなかったことに、気づいた。

娘は、何を、と聞いた。

答えられなかった。

答えられない沈黙を、娘は、電話の向こうで、聞いていた。

聞いてから、お父さん、と、一度だけ言った。

それ以上は、言わなかった。

妻は、その電話の横で、テレビを見ていた。

見ているふりを、していた。

妻が、膝の話をしていた。

膝が痛い、と、何度か、言っていた。

何度かの回数を、こちらは、覚えていない。

覚えていないということは、聞いていなかったということだ。

聞いていなかったのは、そのとき、こちらの目が、朱に行っていたからだ。

朱に行っている目には、ほかが、灰色に見える。

灰色に見えるものは、聞こえない。

妻の膝は、灰色だった。

灰色にしたのは、こちらだ。

一つに色を集めると、集めた分だけ、周りから抜ける。

色は、増えない。

こちらに来た色は、周りから、来た色だ。

周りから抜いた色で、朱を、朱にしている。

第四章 やめない

分かって、やめなかった。

やめない理由は、はっきりしている。

やめると、色が、どこにも無くなる。

朱を手放しても、抜けた色は、周りに戻らない。

戻るなら、やめる。

戻らないことを、こちらは、知っている。

六十から六十八までの八年が、それだった。

八年、何もしなかった。

朝、起きて、新聞を読んで、昼に寝て、夕方に散歩した。

妻と、同じ番組を見た。

見ているあいだ、妻の話を、全部、聞いていた。

全部聞いていたことを、妻は、覚えているだろう。

覚えているので、いまの半分が、分かる。

あの八年、こちらの中に、色が、一つも無かった。

無かったので、周りが薄いことにも、気づかなかった。

薄いのは周りではなく、こちらだった。

いまは、こちらに色がある。

こちらに色があるので、周りが薄いのが、見える。

見えるのは、色があるからだ。

色が無ければ、薄さも、見えない。

色があることと、周りを薄くすることは、同じ手で、起きる。

妻の膝の話を、いまは、聞いている。

聞きながら、頭の半分は、明日の水の量を、考えている。

半分だ。

全部は、渡せない。

渡すと、朱が、灰色になる。

灰色の朱で、蕎麦は、打てない。

第五章 二人分

毎朝、二人分を打つ。

二人分にしているのは、妻のためだと、思っていた。

違う。

一人分では、こちらの気が、済まないからだ。

二人分の粉の重さで、手が、覚えている。

妻は、毎朝、食べる。

膝が痛い日も、食べる。

膝を、ゆっくり、折って、座る。

折るのに、以前より、時間がかかる。

時間がかかっているのを、こちらは、見ている。

見ていて、手は、次の日の粉を、量っている。

食べて、うまい、と言う。

うまい、の声は、四年で、少し、低くなった。

低くなった分を、こちらは、聞いていなかった。

その言葉が薄く聞こえるのは、言葉が薄いからではない。

こちらの耳が、朱に、取られているからだ。

取られている耳で、四年、聞いた。

妻は、それを、知っている。

知っていて、毎朝、食べている。

食べることで、こちらの朱を、支えている。

支えられている朱で、こちらは、妻を、灰色にしている。

そういう形になっていることを、こちらは、いま、知っている。

知っていて、明日も、四時に起きる。

エピローグ

朝、四時に起きた。

台所の電気をつけた。

木鉢の朱が、色を持っていた。

ほかは、灰色だった。

灰色の中に、妻が置いた、湯呑みがあった。

昨夜、妻が、こちらのために、出しておいたものだ。

湯呑みは、灰色だった。

灰色の湯呑みを、しばらく、見た。

見ても、色は、つかなかった。

湯呑みを、流しの横に、戻した。

戻す手が、粉で、白かった。

こちらの色は、全部、朱に、行っている。

行っているものを、戻す方法を、こちらは、知らない。

知らないまま、粉を、量った。

二人分。

量っているあいだ、湯呑みのことは、忘れていた。

忘れていることを、打ち終わってから、思い出した。

思い出したことも、明日には、忘れる。

忘れる分だけ、朱が、濃くなる。

濃くなった朱で、明日も、二人分を打つ。

妻は、食べる。

うまい、と言う。

薄い声で、言う。

薄くしたのは、こちらだ。

薄い声のほうへ、色を、少し、戻したい。

戻し方を、知らない。

知らないので、明日も、朱から、始める。

ソウルミッション358

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