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火曜日

隠していること

火曜日

朗読で聴く

第一章 三十五年

六十七になった。

三十五年、酒を飲んでいない。

飲んでいないことを、家族の誰にも、言っていない。

飲んでいたことも、言っていない。

妻と会ったのは、やめて二年目だった。

妻は、こちらを、飲まない人だと思っている。

飲まない人ではない。

飲まないでいる人だ。

違いを、妻は、知らない。

子どもは、二人いる。

二人とも、父親を、酒に興味の無い人だと思っている。

興味は、ある。

三十五年、毎日、ある。

あることを、毎日、隠している。

やめた日を、覚えている。

三十二の、十一月の、火曜だった。

最初のひと月は、夜、眠れなかった。

眠れない夜に、地下へ行った。

地下で、初めて、飲んでいたことを、口に出した。

口に出したのは、地下だけだ。

地上では、一度も無い。

やめる前の十年を、こちらは、覚えている。

覚えていることを、誰にも言っていない。

言えば、その十年が、この家に、入ってくる。

入ってきたものを、妻と子どもが、どう見るかを、こちらは、見たくない。

それだけのことだ。

それだけのことを、三十五年、続けている。

第二章 火曜

毎週、火曜の夜、出かける。

仕事だ、と言ってある。

工場は、火曜の夜、閉まっている。

閉まっている工場の門の前を、車で通り過ぎて、教会の地下へ行く。

地下に、いつもの顔がある。

いつもの顔も、それぞれ、どこかで、仕事だと言っている。

地下の部屋には、折りたたみの椅子と、コーヒーがある。

コーヒーは、薄い。

薄いコーヒーを、三十五年、火曜に飲んでいる。

妻の入れるコーヒーは、濃い。

濃いコーヒーを飲みながら、薄いコーヒーのことを、思う。

思っていることを、妻は、知らない。

火曜の夜の、車の鍵。

鍵を取るとき、手が、少し、止まる。

止まったところが、点だ。

黒く塗ったつもりのものに、点が透ける。

透けているのは、こちらにだけだ。

妻は、火曜の夜を、仕事の夜だと思っている。

思っていることを、こちらは、三十五年、直さなかった。

直さないことが、毎週、一つの点になる。

一年で五十二。

三十五年で、千八百。

千八百の点が、火曜の鍵の上に、透けている。

鍵は、黒い。

鍵を持つ手は、三十五年で、少し、震えるようになった。

年のせいだと、妻は思っている。

年のせいでもある。

それだけではない。

黒くしたのは、こちらだ。

第三章 黒

隠すというのは、一度、蓋をすることだと、思っていた。

やめた日に、蓋をした。

蓋の上に、この家を建てた。

建ててしまえば、済むと、思っていた。

違った。

蓋には、点が透ける。

息子の結婚式で、乾杯があった。

グラスを、持った。

口に、つけなかった。

つけなかったことに、誰も、気づかなかった。

気づかないのは、こちらが、飲まない人だからだ。

飲まない人は、口をつけなくても、点にならない。

こちらは、点になった。

持ったグラスの重さが、点だった。

点は、こちらにしか、見えない。

娘が、大学で、酒で失敗した。

電話で、泣いた。

こちらは、聞いた。

聞いて、気をつけろ、と言った。

言えることは、それだけだった。

言えることが、もっと、あった。

あったものを、言わなかった。

言わなかったことが、いちばん大きな、点だ。

娘に言えば、娘は、楽になったかもしれない。

楽にする言葉を、こちらは、持っていた。

持っていて、渡さなかった。

渡すと、こちらの十年が、娘に、見える。

見えるほうを、選ばなかった。

娘は、いま、飲まない。

飲まない理由を、こちらは、聞いていない。

第四章 千八百

隠しているものは、一つだ。

飲まないでいること。

隠したことは、一つではない。

毎週、隠した。

三十五年、火曜ごとに、千八百回、隠した。

隠したものは一つで、隠したことは、千八百ある。

千八百の隠したことが、点になって、黒の中に、透けている。

周りには、黒く見えている。

黒く見えているので、周りは、こちらを、真面目な人だと思っている。

真面目な人は、火曜の夜に、働く。

働いていない。

地下で、座っている。

座って、順番に、話す。

話す中身は、この家では、一度も、口にしたことが無い。

地下で言えることが、地上で言えない。

地上で言えないものが、点になる。

地下では、点が、無い。

地下では、こちらは、黒ではない。

地下から出て、車に乗ると、また、黒になる。

黒になる瞬間が、分かる。

鍵を回すときだ。

黒でない一時間のために、火曜の鍵を、三十五年、取っている。

第五章 門

工場の門は、火曜の夜、閉まっている。

閉まった門の前を、通る。

通るとき、こちらは、門を見る。

黒い門だ。

鉄の門で、塗りが、ところどころ、剥げている。

剥げたところに、下の鉄が、点で、光っている。

黒い門の中に、白い点が、透けている。

三十五年、毎週、その門の前を、通り過ぎている。

点が、少しずつ、増えている。

増えているのを、こちらだけが、数えている。

門を塗り直す人は、いない。

こちらも、塗り直さない。

塗り直せば、点は、消える。

消えた点の下に、何があるかを、こちらは、知っている。

鉄だ。

やめる前の、十年だ。

鉄は、消えない。

塗りが、剥げるだけだ。

剥げたところから、鉄が、見える。

見えるのは、こちらだけだ。

妻は、この門の前を、通らない。

通らないので、点を、見ない。

こちらは、二十年、この工場で、働いた。

働いていたとき、門は、黒かった。

辞めてから、剥げ始めた。

剥げ始めたのと、火曜が始まったのは、同じ年だ。

門と、こちらは、同じ年に、剥げ始めた。

門は、隠していない。

こちらは、隠している。

それだけの違いで、門は誰の目にも点があり、こちらは、こちらの目にしか、無い。

エピローグ

隠していたのは、酒ではなかった。

やめ続けていることだった。

やめたことは、一度で済む。

やめ続けることは、毎週、要る。

毎週要ることを、家族に見せなかった。

見せると、こちらが、毎週、何かと戦っていることが、分かる。

分かると、家族の中の、こちらの形が、変わる。

変わった形を、見たくなかった。

見たくないものを、見ないために、千八百回、鍵を取った。

三十五年前と、同じ理由だ。

黒の点は、塗り残しではない。

毎週、点を、一つずつ、彫ってきた。

彫った点の数が、やめ続けた週の数だ。

千八百。

千八百の点は、隠しているものの、証拠ではない。

やめ続けたことの、証拠だ。

証拠を、誰にも、見せていない。

見せれば、証拠は、証拠になる。

見せなければ、点のままだ。

点のままで、いい。

いいと思っていることを、地下でだけ、言った。

地下の人は、うなずいた。

うなずいた顔も、地上では、別の顔をしている。

見せないまま、今週も、火曜の鍵を、取る。

取る手が、止まる。

止まったところに、千八百一の点を、彫る。

彫った点は、黒の中で、透けている。

透けている点を、こちらだけが、見ている。

ソウルミッション358

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