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仏壇の引き出し

隠していること

仏壇の引き出し

朗読で聴く

第一章 四十年

七十三になった。

夫は、七十六だ。

結婚して、四十年になる。

夫に、言っていないことが、一つある。

この結婚が、二度目だということだ。

二十二で、一度、結婚した。

相手は、一年で、死んだ。

病気だった。

二十三で、一人になった。

一年のあいだに、何があったかを、覚えている。

朝、二人で、味噌汁を飲んだ。

それだけの一年だった。

それだけの一年を、四十年、誰にも言っていない。

言えば、ある。

言わなければ、無い。

無いことにして、いまの暮らしが、ある。

十年、一人でいた。

三十三で、いまの夫と、会った。

夫は、こちらを、初婚だと思った。

思った顔を、見た。

その場で、言えばよかった。

言わなかった。

言わなかった理由は、一つではない。

言えば、夫の顔が変わると思った。

変わった顔を、見たくなかった。

それだけのことだった。

それだけのことを、四十年、続けている。

最初の夫の写真は、無い。

指輪だけが、ある。

仏壇の、引き出しの、いちばん奥に。

指輪は、細い。

細いので、引き出しの奥の、木の継ぎ目に、入る。

仏壇は、いまの夫の、親の仏壇だ。

その奥に、別の人の指輪が、入っている。

入っていることを、こちらだけが、知っている。

第二章 黒

隠すというのは、一度、蓋をすることだと、思っていた。

蓋をして、上に、暮らしを置く。

置いてしまえば、済むと、思っていた。

違った。

蓋には、点が透ける。

最初の夫の命日が、来る。

三月の、朝だ。

その朝、こちらの手が、少し、止まる。

止まったところが、点だ。

夫は、気づかない。

夫は、三月の朝を、ただの朝だと思っている。

思っていることを、こちらは、直さない。

役所の書類に、前の名字を書く欄があった。

書かなかった。

書かなかった欄が、点だ。

息子が結婚するとき、戸籍を、取り寄せた。

息子は、こちらの戸籍を、見ていない。

見ていないと、思っている。

見ていたら、息子も、蓋の上に、いることになる。

どちらかは、分からない。

分からないことも、点だ。

夫の親戚が、最初の夫の名字と同じ名字だった。

呼ばれるたびに、こちらの中で、何かが、動いた。

動いたものが、点だ。

動くものは、声に出ない。

出ないので、夫には、聞こえない。

四十年で、点は、いくつになったか。

数えている。

命日が四十回。

名字が、何百回。

書類が、何十回。

数えているのは、こちらだけだ。

夫は、蓋の上の暮らしを、見ている。

蓋の上は、黒い。

黒くしたのは、こちらだ。

第三章 一万四千

隠しているものは、一つだ。

最初の結婚。

隠したことは、一つではない。

毎日、隠した。

朝、起きて、夫の顔を見るたびに、隠した。

四十年、毎日。

一万四千回、隠した。

隠したものは一つで、隠したことは、一万四千ある。

一万四千の隠したことが、点になって、蓋の上に、透けている。

透けているのは、こちらにだけだ。

夫には、黒く見えている。

黒く見えているので、夫は、こちらを、隠しごとの無い人だと、思っている。

四十年、そう思われてきた。

思われている顔を、毎朝、見ている。

見るたびに、点が、一つ、増える。

増えるのが、隠すということだ。

減らす方法は、一つしか無い。

言うことだ。

言えば、点は、全部、消える。

消えたあとに、夫の顔が、変わる。

変わった顔を、見たくない。

四十年前と、同じ理由だ。

同じ理由で、四十年、増やしている。

一度蓋をすれば済むのではない。

毎朝、蓋の上に、もう一枚、蓋をする。

一万四千枚の蓋が、重なっている。

重なった蓋の、いちばん下に、指輪がある。

指輪は、小さい。

小さいものを隠すのに、一万四千枚、要った。

一万四千枚は、薄い。

薄いので、重ねても、指輪の形が、分かる。

分かるのは、こちらだけだ。

第四章 指輪

年に一度、指輪を、見る。

三月の朝、夫が散歩に出たあとだ。

夫の散歩は、四十分だ。

四十分のうち、一分だけ、使う。

仏壇の引き出しを、開ける。

いちばん奥に、手を入れる。

指輪は、冷たい。

四十年、冷たい。

冷たいのは、四十年、誰の指にも、無かったからだ。

冷たいまま、手のひらに、載せる。

載せて、一分、見る。

一分のあいだ、蓋が、無い。

蓋が無いあいだ、こちらは、二十三の、一人の女だ。

一分たつと、戻す。

戻して、引き出しを、閉める。

閉めると、蓋が、戻る。

戻った蓋の上に、その日の暮らしを、置く。

夫が、散歩から帰る。

おはよう、と、こちらが言う。

言った声が、点だ。

夫は、いつもの声だと、思っている。

いつもの声で、四十年、言ってきた。

いつもの声が、一万四千回、点だった。

第五章 仏壇

仏壇の扉は、閉まっている。

朝と晩に、開けて、手を合わせる。

合わせる相手は、夫の親だ。

夫の親に、手を合わせながら、こちらは、引き出しの奥のことを、思う。

思うことを、夫の親は、知っているかもしれない。

死んだ人は、蓋の下を、見るかもしれない。

見ているなら、四十年、見ている。

見ていて、何も言わない。

言わないのは、夫の親も、蓋の下に、何かを持っていたからかもしれない。

持っていたかどうかは、分からない。

分からないが、この仏壇には、こちらの指輪が入っている。

入っていることを、仏壇は、知っている。

仏壇に、隠しているのではない。

仏壇と、隠している。

仏壇は、こちらの側だ。

朝晩、扉を開けるとき、手が、引き出しのほうへ、少し、寄る。

寄った手を、戻して、扉を開ける。

扉は、黒い。

黒い扉の、木目のところに、白い筋が、透けている。

筋は、木の傷だ。

傷を、こちらは、点だと、思って見ている。

黒い扉の中に、白い点が、透けている。

誰も、点を見ない。

夫は、扉を見て、扉だと思う。

こちらは、扉を見て、点を数える。

同じ扉を、四十年、二人で、違うものとして、見ている。

エピローグ

夫が、この前、言った。

おまえは、隠しごとが無くていい。

褒めたつもりだった。

こちらは、そう、と答えた。

答えた声が、点になった。

一万四千一。

夫の言葉で、蓋が、一枚、厚くなった。

厚くなった蓋の上で、夫は、安心している。

安心は、蓋の厚さで、できている。

厚いほど、安心する。

厚くしているのは、こちらだ。

安心の下に、指輪がある。

息子が来たら、仏壇の掃除を、頼まれるかもしれない。

頼まれたら、引き出しの奥は、こちらがする。

夫が先に死んだら、指輪を、夫の骨と一緒に、入れるか。

入れない。

入れると、夫が、蓋の下を、見る。

こちらが先に死んだら、指輪は、引き出しに残る。

夫が、見つける。

見つけて、夫は、初めて、点を見る。

一万四千の点を、一度に、見る。

一度に見ると、点ではなくなる。

紙になる。

紙になった蓋の上で、夫は、何を思うか。

思う夫を、こちらは、見られない。

見られないところで、初めて、隠しているものが、無くなる。

無くなるのを、こちらは、見られない。

それが、隠すことの、最後の点だ。

ソウルミッション358

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