献立表
隠していること

朗読で聴く
第一章 三十年
六十一になった。
小学校の給食室で、三十年、働いている。
野菜を切り、汁を煮て、四百人分を鍋に分ける。
手は、速い。
速いことを、みんなが知っている。
字が読めないことを、誰も知らない。
ぜんぶが読めないのではない。
自分の名前と、数字と、いくつかの漢字は、読める。
文章になると、読めない。
小さいころ、学校に、あまり行けなかった。
行けなかった理由は、ここには関係が無い。
関係があるのは、行けなかったことだけだ。
献立表は、毎月、紙で来る。
紙に、一か月分の献立が、字で書いてある。
こちらは、それを、形で覚える。
カレーの日は、字の形が、こういう形をしている。
シチューの日は、こういう形。
三十年、同じ献立が回るので、形は、ほとんど覚えている。
覚えている形で、三十年、やってきた。
三十年前、この仕事に入るとき、書類があった。
夫が、書いた。
夫は、こちらの手が荒れているから、と、周りに言った。
周りは、それで、納得した。
納得した顔を、こちらは、覚えている。
あの顔が、最初の黒だった。
誰にも、言っていない。
夫だけが、知っている。
夫も、言わない。
二人で、塗っている。
子どもにも、言っていない。
子どもの宿題は、見なかった。
見ないのが、この家のやり方だと、子どもは思っている。
第二章 黒
隠すというのは、黒く塗ることだと、思っていた。
塗って、上から見えなくすれば、済むと思っていた。
違った。
塗った黒には、点が透ける。
新しい献立が来た日、手が、一秒、止まる。
止まったところが、点だ。
同僚は、気づかない。
気づかないように、手を、先に動かす。
動かしながら、隣の手を、見る。
一秒だから。
こちらだけが、点を数えている。
配達の伝票に、判を押すところが分からない日。
点だ。
保護者からの、手紙。
点だ。
病院の、問診票。
書けないので、口で言う。
言うと、看護師が、書いてくれる。
書いてくれるあいだ、こちらは、窓を見ている。
窓を見ている顔が、点だ。
三十年で、いくつ点があったかを、こちらは、だいたい知っている。
数えていたからだ。
黒く塗るというのは、毎日、点を数えることだ。
誰も、点を見ない。
こちらだけが、点の数を、知っている。
点は、小さい。
小さいので、集めても、紙にはならない。
ならないと、思っていた。
第三章 新しい人
去年、若い人が入った。
二十三だ。
献立表を見て、明日はこれですね、と、声に出して読む。
読んでくれる。
読んでくれるので、形で覚える必要が、無くなった。
無くなったことに、初めて、楽になった。
楽になって、初めて、三十年、楽でなかったことが、分かった。
分かって、少し、怖くなった。
楽なほうに慣れると、点が、増える。
読んでもらう日が続くと、形を覚える手が、止まる。
止まった手は、若い人が休みの日に、困る。
困る日が、点になる。
だから、若い人が読んでくれても、こちらは、形を見る。
見て、覚える。
読んでもらったあとに、覚える。
二重に、やっている。
二重にやっていることを、若い人は、知らない。
知らないので、こちらの手が速いと、思っている。
速いのは、二重にやっているからだ。
若い人の名前も、形で覚えた。
名札の形だ。
呼ぶときは、声で呼ぶ。
声には、字が要らない。
第四章 点
隠しているものは、一つだ。
字が読めないこと。
隠したことは、一つではない。
毎日、隠した。
三十年、毎日、七千回くらい、隠した。
隠したものは一つで、隠したことは、七千ある。
七千の隠したことが、点になって、黒の中に、透けている。
透けているのは、こちらにだけだ。
周りには、黒く見えている。
黒く見えているので、周りは、こちらを、手の速い人だと、思っている。
手の速い人は、字が読める人だと、たぶん、思っている。
思われていることを、こちらは、直さない。
直すと、七千の点が、全部、一度に、見える。
一度に見えると、点ではなくなる。
紙になる。
紙になったら、黒は、無くなる。
黒が無くなったあとに、何が残るかを、こちらは、知らない。
知らないので、塗り続けている。
塗り続けるというのは、毎朝、四百人分の汁を煮ることだ。
煮ているあいだは、字が、要らない。
要らないあいだだけ、こちらは、黒ではない。
娘が小さいころ、絵本を、読んでくれと言った。
絵を見て、話を作った。
娘は、それを、読んでいるのだと思った。
大きくなって、娘が、こちらに読んでくれた。
同じ本の、本当の話は、こちらが作った話と、違っていた。
違っていることを、娘は、知らない。
娘の中では、こちらの話が、その本だ。
それも、点だ。
娘の中に、透けている。
第五章 掲示板
給食室の壁に、掲示板がある。
献立表を、そこに貼る。
貼るのは、こちらの仕事だ。
貼るとき、こちらは、形を見る。
貼ってから、一日に何度も、見る。
見るたびに、形を確かめる。
確かめる目は、読んでいる目と、同じに見える。
同じに見えることを、三十年、頼りにしてきた。
月末に、献立表を剥がす。
剥がしたあとの掲示板は、黒い板だ。
何も貼っていない黒い板を、こちらは、月に一度、見る。
黒い板には、画鋲の穴が、点々と、残っている。
三十年分の穴だ。
穴は、白い。
黒い板の中に、白い点が、透けている。
それを見るのは、月末の、剥がしたあとの、一分だけだ。
一分のあいだ、こちらは、自分の黒を、見ている。
それから、新しい献立表を、貼る。
貼ると、穴は、見えなくなる。
見えなくなるだけで、穴は、ある。
あることを、こちらだけが、知っている。
新しい画鋲は、古い穴に、刺す。
新しい穴を、増やさないためだ。
増やさなくても、穴は、減らない。
画鋲は、四つ。
四つの穴に、毎月、同じ画鋲を刺す。
刺す場所を、間違えたことは無い。
穴の場所は、字より、よく覚えている。
エピローグ
若い人が、字を教えましょうか、と、言ったことがある。
冗談のつもりだったと思う。
こちらの手を見て、うちの母もそうだったんです、と言った。
その一言で、こちらの黒が、向こうから、見えていることが、分かった。
点が、透けていた。
こちらが数えていた点を、向こうも、いくつか、数えていた。
何も、答えなかった。
答えないことが、また、一つの点になった。
七千一。
月末に、献立表を剥がした。
黒い板に、穴が、透けていた。
いつもより、一つ、多く見えた。
一つ多い点は、いつもの点より、少し、大きい。
多く見えたのは、若い人の一言のせいだ。
新しい献立表を、貼った。
形を、見た。
カレーの形と、シチューの形と、知らない形が、一つ、あった。
知らない形は、若い人が、明日、読んでくれる。
読んでくれたあとに、こちらは、その形を、覚える。
覚えて、貼って、黒くする。
黒くしたものは、点で、透ける。
透けている点を、今日も、数えている。
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