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コーヒー沸かし

光の前に立っていたこと

コーヒー沸かし

朗読で聴く

第一章 妹

六十三になった。

姉は、町で歌う人だった。

教会で歌い、祭りで歌い、ラジオで歌った。

この町で、姉の名前を知らない人は、いなかった。

こちらは、あの人の妹、だった。

名前は、あった。

呼ばれなかった。

妹さん、と呼ばれた。

呼ぶ人に、悪気は、無かった。

子どものころ、教会で、二人で歌わされた。

姉が歌った。

こちらは、隣で、口を動かした。

声は、出さなかった。

出しても、聞こえなかった。

聞こえないなら、出さないほうが、楽だった。

楽なほうを、それから、五十年、選んだ。

四十年、家業の食堂のカウンターに立った。

姉は、月に一度、食堂に来た。

来ると、店じゅうが、姉を見た。

こちらは、その日、コーヒーを注いで回った。

注いでいるこちらを、誰も見なかった。

見られないことに、慣れた。

慣れると、楽だった。

こちらは、姉の影の中にいる、と思っていた。

影の中にいる人は、影の中を、よく知っている。

光は、姉に当たる。

こちらには、当たらない。

当たらないところで、四十年、コーヒーを注いだ。

姉は、八年前に死んだ。

死んでも、妹さん、と呼ばれる。

呼ばれることに、腹は、立たない。

立たないことも、慣れだ。

第二章 カウンター

食堂のカウンターは、窓に向いている。

こちらは、カウンターの内側に立つ。

客は、外側に座る。

客の顔に、窓の光が当たる。

こちらの顔にも、当たる。

朝の八時から、昼の二時まで、光は、こちらとお客の顔にあった。

厨房は、奥だ。

奥は、暗い。

奥で、ジョアンが、二十年、働いていた。

ジョアンは、四十だ。

二十のとき、店に来た。

卵を焼き、皿を洗い、パイを焼いた。

パイは、この店の、いちばん売れるものだ。

客は、パイをこちらに注文し、こちらが運び、うまい、とこちらに言う。

ジョアンの名前を、客は、知らない。

この店は、あの人の妹の店、と呼ばれていた。

妹の店の、パイ。

パイを焼いた人の名前は、どこにも、無かった。

無いことに、こちらは、気づかなかった。

気づかないでいられたのは、こちらが、自分を、影の中の人だと思っていたからだ。

影の中の人が、誰かの光を遮っているとは、思わない。

思わないので、四十年、思わなかった。

一度、客に、パイの作り方を聞かれた。

答えられなかった。

答えられないことを、客は、秘密だと思った。

秘密ではない。

知らなかった。

知らないまま、うまい、を、二十年、受け取っていた。

第三章 最後の日

六十三で、店を、若い夫婦に譲った。

最後の日、閉めたあと、ジョアンが、カウンターの外側に座った。

二十年で、初めて、外側に座った。

コーヒーを、こちらが注いだ。

ジョアンが、言った。

私は、一度も、あなたの前に出たことが無かった。

責める声では、なかった。

ただ、言った。

言ってから、続けた。

あなたのせいじゃない、窓が、そこにあるだけ。

窓が、そこにある。

そこに、立つ人がいる。

立つ人の後ろが、厨房になる。

それだけのことを、二十年、していた。

こちらは、答えられなかった。

前に出る、という言葉が、こちらの中に、無かった。

こちらは、前にいたことが、無い。

姉の前に出たことが、一度も、無い。

無いと、思っていた。

ジョアンから見れば、こちらは、前にいた。

四十年、カウンターの内側の、窓の前に、立っていた。

ジョアンは、その後ろの、厨房にいた。

厨房から見ると、こちらの背中があり、その向こうに、窓の光がある。

ジョアンには、光の前に立つこちらの形が、二十年、見えていた。

こちらには、姉しか、見えていなかった。

第四章 列

影の中にいる、と思っていた。

思っていた四十年、こちらの後ろにも、人がいた。

姉の後ろに、こちらがいた。

こちらの後ろに、ジョアンがいた。

列は、二人では、終わらない。

姉に光が当たり、こちらは姉の形を見て、ジョアンは、こちらの形を見ていた。

前に立つことは、後ろにいながら、起きる。

後ろにいる人は、自分の後ろを、見ない。

前しか、見ない。

前に、姉がいた。

姉を見ていれば、それで、済んでいた。

済んでいたことが、ジョアンには、二十年の暗さだった。

暗さを、こちらは、作っていた。

作っているつもりは、無かった。

つもりが無いことは、していないことにならない。

こちらの形を、こちらは、見たことが無い。

姉の形なら、四十年、見た。

形の向こうに光があると、形は、黒い。

姉は、こちらには、黒い形だった。

こちらは、ジョアンには、黒い形だった。

同じことが、一つずつ、後ろへ、ずれていた。

第五章 コーヒー沸かし

カウンターの端に、大きな鋼のコーヒー沸かしがある。

父が買った。

四十年、同じ場所にある。

窓の前だ。

朝、店の中から見ると、窓の光を背にして、黒い塊になる。

中から見る人には、黒い塊だ。

外から見ると、鋼が、日を受けて、光る。

外の人には、光る物だ。

同じ物が、見る側で、違う。

父は、毎朝、店の外に出て、窓越しに、それを磨いていた。

中からではなく、外から、見ていた。

外から見ると、光る。

光るものを、父は、磨いていた。

こちらは、中から、黒い塊を、見ていた。

同じ物を、父とこちらは、違う側から、見ていた。

こちらは、四十年、中から見ていた。

黒い塊の後ろに、光があると、知っていた。

知っていて、自分も、誰かの黒い塊だとは、思わなかった。

中から見る人と、外から見る人がいる。

姉は、こちらにとって、中から見る塊だった。

こちらは、ジョアンにとって、中から見る塊だった。

外からは、こちらは、光っていたのかもしれない。

あの人の妹、と呼ぶ人たちには。

光っているのに、こちらは、影の中にいると、思っていた。

思えたのは、中からしか、見なかったからだ。

エピローグ

最後の朝、店の外に立った。

窓を、外から、見た。

コーヒー沸かしが、光っていた。

鋼が、朝日を、返していた。

中からは、黒い。

外からは、光る。

四十年、中からしか、見なかった。

外に立つと、店の中が、暗い。

暗い中で、ジョアンが、コーヒー沸かしの後ろに、立っていた。

こちらが立っていた場所に、ジョアンが、いた。

ジョアンの後ろに、若い夫婦がいた。

列は、続いていた。

こちらは、初めて、列の外にいた。

外から見ると、列の全員が、光っていた。

誰も、影の中にいなかった。

影は、中にいる人にしか、無い。

中にいる人が、前の人の形を、影と呼ぶ。

こちらは、四十年、姉の形を、影と呼んでいた。

ジョアンは、二十年、こちらの形を、何と呼んでいたのだろう。

聞かなかった。

聞くと、こちらの形を、初めて、知ることになる。

知る前に、外に出た。

外から見るものは、全部、光っている。

光っているものの後ろに、何があるかは、外からは、見えない。

店の戸を、閉めた。

閉めた戸の中に、列がある。

知らないまま、外にいる。

ソウルミッション358

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