あなたの魂のテーマを探す に戻る

物干し

光の前に立っていたこと

物干し

朗読で聴く

第一章 五十年

七十九になった。

娘は、五十二だ。

一緒に、住んでいる。

娘が二つのとき、この家を建てた。

庭が、狭い。

物干し竿を立てる場所が、娘の部屋の窓の前しか、無かった。

そこに、立てた。

毎朝、洗濯物を干した。

シーツも、夫のシャツも、娘の服も。

娘の部屋の窓の前に、朝から昼まで、洗濯物が、下がっていた。

五十年、下がっていた。

夫は、十年前に死んだ。

夫のシャツが、無くなった。

洗濯物は、減った。

減っても、竿は、同じ場所にあった。

減ったぶん、シーツを、広げて干した。

窓の前は、同じだけ、隠れていた。

娘の部屋は、朝、暗かった。

暗かったことを、こちらは、知らなかった。

知らなかった、というより、考えなかった。

洗濯物は、干すものだ。

干す場所は、そこしか無かった。

それだけのことだった。

それだけのことを、五十年、毎朝、した。

窓を開けても、シーツしか見えなかったはずだ。

はずだ、としか言えない。

窓の内側に、立ったことが無い。

第二章 前

娘に来るものは、こちらが先に受けた。

縁談が来た。

こちらが会って、断った。

娘には向かない、と思った。

娘には、言わなかった。

言えば、気にする。

気にすると、娘は、動けなくなる。

動けなくなるのを、こちらは、小さいころから、見ていた。

小学校の運動会で、走る前に、動けなくなった。

こちらが、手を引いて、列に戻した。

それから、五十年、手を引いていた。

引いているつもりは、途中から、無くなった。

手が、そうなっていた。

見ていたので、先に受けた。

電話も、こちらが出た。

娘にかかってきたものも、こちらが出て、用件を聞いて、伝えるものだけ伝えた。

伝えなかったものもある。

いくつあるかは、数えていない。

仕事の話も、来た。

東京の会社から、娘を、と言われた。

遠い、と、こちらが答えた。

娘には、そのあとで、言った。

娘は、そう、と言った。

それだけだった。

それだけで、済んだ。

済んだことが、守ったことだと、こちらは、思っていた。

守っているつもりで、五十年、前に立っていた。

前に立つと、来るものは、全部、こちらに当たる。

当たったものを、こちらが、選んだ。

選んだものだけが、娘に届いた。

届かなかったものは、娘は、知らない。

知らないので、娘は、何も言わない。

言わないことを、こちらは、不満が無いことだと、思っていた。

一度だけ、娘が、言ったことがある。

三十のときだ。

自分で出る、と言った。

電話のことだ。

出ればいい、とこちらは答えて、次の朝も、こちらが出た。

娘は、二度目を、言わなかった。

言わなかったので、それでいいのだと、思った。

第三章 三日

去年、三日、入院した。

大したことではなかった。

三日のあいだ、娘が、一人で、家にいた。

病院には、毎日、来た。

来て、何も言わずに、帰った。

洗濯物を、娘が、干した。

干す場所を、娘が、決めた。

五十年で、初めて、娘が決めた。

帰ると、竿が、動いていた。

娘の部屋の窓の前から、庭の端に、動いていた。

端は、狭い。

シーツを干すと、塀に触る。

それでも、そこに、あった。

娘が、動かした。

一人で、動かした。

竿は、重い。

重いものを、一人で、動かした。

娘は、何も言わなかった。

こちらも、聞かなかった。

次の朝、娘の部屋の前を通った。

戸が、あいていた。

朝の光が、部屋の奥まで、入っていた。

五十年、こちらは、その部屋の朝を、見たことが無かった。

見なかったのではない。

見に行く必要が、無かった。

洗濯物を干している人は、洗濯物の後ろを、見ない。

娘が、部屋の中から、言った。

明るい。

それだけ、言った。

こちらは、そう、と答えた。

答えて、台所に行った。

台所で、しばらく、立っていた。

第四章 暗い

前に立つと、後ろは、暗い。

暗いことを、前に立っている人は、知らない。

前に立っている人には、光が当たっている。

こちらには、毎朝、日が当たっていた。

洗濯物を干す手に、顔に、日が当たっていた。

当たっているので、後ろのことを、考えなかった。

日は、前の人で、止まる。

止まったところから後ろには、日が、無い。

考えないでいられるのが、前に立つということだった。

守っていたのではない。

前に、立っていた。

守ることと、前に立つことは、こちらからは、同じ形をしている。

後ろからは、たぶん、違う形をしている。

後ろからは、こちらの影しか、見えない。

娘は、五十年、窓の向こうに、洗濯物と、こちらの影を、見ていた。

朝、目が覚めて、窓を見ると、それがあった。

それが、娘の朝だった。

影は、シーツの形をしていた。

シーツの下に、こちらの、腕が動いていた。

腕は、洗濯ばさみを、つまんでいた。

つまむたびに、窓の中で、影が動いた。

動く影を、娘は、朝ごはんの前に、見ていた。

娘の朝を、こちらが、作っていた。

作っているつもりは、無かった。

つもりが無いことは、していないことにならない。

五十年、していた。

第五章 竿

竿を、戻していない。

戻せる。

戻さない。

戻すと、娘の部屋が、また、暗くなる。

暗くなることを、いまは、知っている。

知ってしまうと、前に立てない。

知らないでいられたから、五十年、立てた。

娘は、去年から、電話に出る。

こちらが出る前に、出る。

鳴ると、こちらの手が、動く。

動いて、止める。

止めるのに、まだ、力が要る。

縁談は、もう、来ない。

来ないので、こちらが受けるものが、無い。

受けるものが無いと、前に立つ場所が、無い。

場所が無くなって、初めて、場所があったことが、分かった。

娘の顔が、少し、変わった。

明るくなった、と言えば、そうだ。

部屋が明るくなったせいか、こちらが後ろに回ったせいかは、分からない。

両方だ、と、たぶん、娘なら言う。

聞いていない。

聞くと、答えを、聞くことになる。

答えは、たぶん、こちらの五十年を、一言で言う。

一言で言われると、五十年が、その一言になる。

ならないように、聞かない。

聞かないことも、前に立つことの、続きだ。

エピローグ

朝、洗濯物を、庭の端に干す。

シーツが、塀に触る。

触っても、干す。

端が、少し、汚れる。

汚れは、こちらが後ろに回った印だ。

干してから、娘の部屋の窓を、外から見る。

光が、入っている。

窓に、こちらの影は、無い。

五十年、あった影が、無い。

無いことを、娘は、部屋の中から、見ている。

見ているかどうかは、分からない。

分からないが、見えるようには、なっている。

こちらは、初めて、娘の窓を、後ろから見ている。

後ろから見ると、窓は、ただの窓だ。

前に立っていたときは、窓は、洗濯物を干す場所の、向こうだった。

向こうにあるものを、前に立つ人は、見ない。

見ないで、五十年、立てた。

立てたことが、いちばん、こたえている。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所