窓口
光の前に立っていたこと

朗読で聴く
第一章 四十年
六十八になった。
写真館だった。
父の店だった。
二十八のとき、窓口に立った。
撮るのは、父だった。
窓口は、母だった。
母が死んで、こちらが、窓口に立った。
撮るほうを、こちらは、覚えなかった。
父が、教えなかった。
窓口のほうが、向いている、と言った。
向いている、と言われて、四十年、そこにいた。
父が死んで、撮るのは、息子になった。
息子は、二十年、撮っている。
こちらは、四十年、窓口に立っていた。
客は、窓口に来る。
しちごさんの日取りも、証明写真の大きさも、こちらに言う。
できあがった写真を、こちらが渡す。
いい写真ですね、と、客はこちらに言う。
ありがとうございます、と、こちらが言う。
撮ったのは、息子だ。
息子は、奥にいる。
奥は、客からは見えない。
客は、息子の名前を、知らない。
この店の写真は、こちらが撮っていると、たぶん、思っている。
思っていることを、こちらは、直さなかった。
直す理由が、無かった。
嘘は、言っていない。
撮っています、と言ったことは、一度も無い。
ただ、窓口に立っていた。
立っていると、客の顔は、こちらを向く。
こちらを向いた顔が、四十年、こちらの仕事だった。
第二章 光
窓口には、光がある。
通りの光が、ガラス戸から入る。
入った光が、客の顔に当たる。
こちらの顔にも、当たる。
当たっていることを、こちらは、考えたことが無かった。
当たった顔を、こちらは、四十年、見ていた。
誰が何を撮りに来て、どんな顔で写真を受け取ったかを、全部、覚えている。
奥は、暗い。
撮るための暗さだ。
息子は、暗いところで、二十年、撮っていた。
撮って、現像して、修整して、袋に入れる。
袋に入れるところまでが、息子だ。
袋を、こちらが、受け取る。
受け取って、客に渡す。
客は、袋を開けて、こちらを見る。
こちらを見て、いい写真ですね、と言う。
袋を作った人のことは、誰も、見ない。
奥から窓口を見ると、こちらの背中がある。
背中の向こうに、ガラス戸の光がある。
息子には、光の前に立つこちらの形が、見えていたことになる。
なる、と、去年まで、考えたことが無かった。
こちらには、客の顔が見えていた。
見えているほうが、見えていないほうのことを、考えない。
考えないでいられるのが、前に立つということだった。
第三章 腰
去年、腰を悪くした。
立っていられなくなった。
窓口に、息子が立った。
こちらは、家で、寝ていた。
三か月、寝た。
妻は、店の帳面を、三十年、見ている。
妻は、奥にも、窓口にも、出ない。
出ないので、両方が、見える。
妻が、店から帰って、言った。
お客さんが、息子に、あなたが撮っていたの、と言ったそうだ。
腕がいいのね、と、言ったそうだ。
言ったのは、三十年、通っている人だ。
子どもの写真も、孫の写真も、この店で撮った。
三十年、こちらに、いい写真ですね、と言っていた人だ。
その人が、息子の顔を、初めて、見た。
三十年、そこにいた顔を、初めて、見た。
二十年、撮っていた。
初めて、言われた。
初めてだということを、こちらは、妻から聞いて、知った。
初めてだと、その日まで、考えたことも無かった。
いい写真ですね、は、四十年、こちらが受け取っていた。
受け取って、ありがとうございます、と言って、それで、終わっていた。
奥へ、渡していなかった。
渡すものだと、思っていなかった。
こちらに向いて言われた言葉は、こちらのものだと、思っていた。
思っていたことが、間違いだったのかどうかは、いまも、分からない。
分からないが、奥には、届いていなかった。
それだけは、確かだ。
第四章 前
遮っているつもりは、無かった。
褒め言葉を、横取りしたつもりも、無かった。
ただ、前に立っていた。
前に立つと、後ろは、暗い。
暗いことは、前に立っている人には、分からない。
前に立っている人には、光が見えている。
光が見えているので、自分が何を遮っているかが、見えない。
息子に、光が当たっていないことを、こちらは、四十年、知らなかった。
知らなかった、というのは、言い訳に聞こえる。
言い訳では、ない。
本当に、見えなかった。
前に立っている人からは、自分の形が、見えない。
自分の形は、後ろの人にしか、見えない。
後ろの人は、その形しか、見ていない。
息子は、二十年、こちらの形を見ていた。
形の向こうの光を、見ていた。
形は、動かなかった。
動かないものは、そこに、あるとも思われない。
壁のように、なる。
四十年、同じ場所に、立っていた。
立っていることが、この店の、こちらの仕事だと、思っていた。
仕事だった。
仕事だったことと、遮っていたことは、同じ形をしている。
第五章 形
こちらの背中の写真は、一枚も、無い。
写真館なのに、無い。
息子に頼めば、撮れる。
頼まない。
頼むと、遮っていたことを、認めることになる。
認めないことで、いまも、少し、遮っている。
少し遮っていることを、こちらは、知っている。
知っていて、まだ、そこに立っている。
腰は、治った。
店には、戻っていない。
戻らないことで、窓口は、息子のものになった。
なったはずだ。
息子は、何も言わない。
言わないので、なったかどうかは、分からない。
二十年、言わなかった。
言わないことを、こちらは、不満が無いことだと、思っていた。
暗いところにいる人は、言わない。
言っても、前の人には、届かない。
届かないことを、二十年で、覚えたのかもしれない。
息子から見たこちらの形を、こちらは、一度も見ていない。
黒い形だったはずだ。
光の前に立つものは、黒い形にしか、見えない。
四十年、息子には、こちらが黒い形だった。
客には、顔だった。
同じ人が、前からは顔で、後ろからは形だった。
どちらが、こちらだったのかは、分からない。
分からないまま、四十年、そこにいた。
エピローグ
店が閉まってから、店に入った。
窓の前に、三脚のカメラがある。
父のカメラだ。
いまは使っていない。
父は、このカメラの後ろに、四十年、立っていた。
母は、その前に、立っていた。
こちらは、母のあとに、立った。
息子は、父のあとに、立った。
同じ形が、二代、続いた。
窓の光を背にして、カメラは、黒い形になっている。
形の中に、何も見えない。
蛇腹も、レンズも、真鍮の留め金も、形の中に、消えている。
光の前に立つと、そうなる。
こちらは、四十年、こうだった。
息子から見て、こうだった。
カメラの後ろに、立ってみた。
窓の光が、まぶしかった。
まぶしいので、カメラの形が、はっきり見えた。
はっきり見えるのは、遮っているものの形だけだ。
遮っているものは、自分の形を、見られない。
見ているのは、後ろに立った人だけだ。
後ろに立って、初めて、見た。
見えたのは、カメラだった。
こちらの形は、まだ、見ていない。
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