給水塔
一つしか知らないこと

朗読で聴く
第一章 郡
七十八になった。
この郡で生まれた。
この郡から、出たことがない。
州の外はもちろん、隣の郡にも、行ったことがない。
行く用が、無かった。
病院はこの郡にあり、教会もこの郡にあり、夫の墓もこの郡にある。
夫も、この郡の人だった。
結婚して五年目に、一度だけ、海を見に行こう、と言った。
海は、車で九時間だった。
行こう、と答えて、行かなかった。
牛の世話があった。
牛は、三十頭いた。
三十頭の、どれが、どの牛かを、こちらは、知っていた。
次の年も、牛がいた。
夫が死ぬまで、牛がいた。
海の話は、それきり、出なかった。
出なかったことを、惜しいとは、思っていない。
惜しむ場所が、無い。
町は、小さい。
通りが四本。
食料品店が一つ。
給水塔が一つ。
給水塔は、町のどこからでも見える。
見えない場所を、こちらは、知らない。
この町に、見えない場所は、無い。
孫娘が、九月に、州の外の大学へ行く。
行く前に、聞かれた。
おばあちゃんは、どこにも行かなかったの。
行かなかった、と答えた。
答えてから、違う、と思った。
行かなかったのではない。
ほかが、無かった。
第二章 裏まで
この町のことなら、全部、言える。
どの家の裏庭に、どの木があるか。
どの通りが、春に、水が出るか。
食料品店の床の、どこが、へこんでいるか。
へこんでいるところを、四十年、踏まないで歩いている。
踏まないことを、考えたことは、無い。
足が、避ける。
教会の椅子の、何列目の、どこが、きしむか。
郵便が、何時に来て、雨の日は、何分遅れるか。
給水塔の影が、夏の午後、どの家まで届くか。
届いた家の、誰が、その影で昼寝をしていたか。
その人は、もう、いない。
いないことも、知っている。
墓の場所も、知っている。
この町の、生きている人と、死んだ人を、全部、知っている。
全部、と言っても、五百人だ。
五百人を、裏まで、知っている。
それを、知っている、とは言わない。
空気のことを、知っている、とは言わないのと同じだ。
この町は、こちらにとって、空気だった。
空気の外に、何があるかを、考えなかった。
考えなかったのではない。
考える場所が、無かった。
第三章 地図
孫娘が、地図を、広げた。
大学の町に、印をつけた。
ここ、と言った。
見た。
紙の上の、点だった。
点の周りに、何も無かった。
道の線と、川の線と、町の名前が、印刷されていた。
印刷されているものは、こちらには、無い。
無いものは、点にしか、ならない。
孫娘は、電話の画面で、その町の写真を見せた。
通りと、建物と、木が、映っていた。
映っているものは、平らだった。
裏が、無かった。
この町の通りには、裏がある。
通りの下に何が埋まっているか、こちらは、知っている。
画面の通りの下には、何も、無い。
無いのではなく、こちらが、彫っていない。
孫娘は、その点の話を、三十分、した。
寮のこと、教室のこと、町の通りのこと。
聞いた。
聞いているあいだ、話は、こちらの中に、落ちる場所が無かった。
落ちる場所が無いものは、聞いても、通り過ぎる。
通り過ぎたあとに、何も、残らない。
孫娘が、聞いた。
行ってみたいと、思わなかったの。
思わなかった、と答えた。
思わなかったのではない。
思う場所が、無かった。
行きたい、というのは、そこに何かがあって、それが、こちらに無いことだ。
こちらには、そこが、無い。
無いものを、行きたいとは、思えない。
第四章 黒
この町は、一つの物だ。
黒い板に、一つだけ、白い線で彫った。
彫ったところは、裏まで、彫った。
通りの四本も、食料品店の床のへこみも、五百人の顔も、墓も。
周りは、彫っていない。
彫っていないところは、黒い。
黒いところは、暗いのではない。
無い。
孫娘は、その黒いところへ、行く。
行けば、そこは、孫娘の中で、白くなる。
こちらの中では、黒いままだ。
孫娘が帰ってきて、その町の話をしても、こちらの中には、落ちる場所が無い。
それで、いい。
いい、と思っていることを、孫娘は、知らない。
知らないので、おばあちゃんはかわいそうだ、と、たぶん、思っている。
思われていることを、こちらは、知っている。
この町の人が何を思うかは、全部、知っている。
孫娘も、この町の人だ。
九月までは。
第五章 給水塔
夜、台所の窓から、給水塔が見える。
上に、赤い灯が、一つ、ついている。
七十八年、同じ場所に、ついている。
同じ灯を、五百人が、見ている。
見ている全員を、こちらは、知っている。
孫娘は、九月から、それを、見ない。
見ない場所で、別の灯を、見る。
別の灯を見る人のことを、孫娘は、知らない。
知らない人の中で、暮らす。
知らない人を、少しずつ、彫っていく。
彫っても、裏までは、彫れない。
裏まで彫るには、七十八年、要る。
孫娘は、その時間を、一つの場所に、使わない。
使わないので、裏まで彫った場所を、一つも、持たない。
どこへ行っても、おもてだけだ。
おもてだけの場所を、いくつも、持つ。
こちらは、裏まで彫った場所を、一つだけ、持つ。
一つしか、知らない。
一つは、裏まで、知っている。
どちらが、いいかは、分からない。
分からない、というのは、違う。
比べる場所が、無い。
こちらには、一つしか、無い。
一つしか無いものは、比べられない。
比べられないものを、七十八年、生きた。
給水塔の灯が、ついている。
消えたことは、一度も、無い。
いや、一度、消えた。
二十年前の、嵐の夜だ。
町じゅうの電気が、消えた。
窓から、給水塔のほうを見た。
黒かった。
黒い中に、給水塔が、無かった。
あることを、知っているのに、無かった。
朝になって、また、あった。
あの夜の黒が、こちらの、町の外だ。
あると分かっていても、見えない。
見えないものは、無い。
エピローグ
九月に、孫娘が、出ていった。
車で、州の外へ、行った。
車が、四本の通りの、一本を、曲がって、見えなくなった。
見えなくなった場所を、こちらは、知っている。
その先は、知らない。
知らないのではない。
無い。
孫娘から、電話が来た。
元気、と聞かれた。
元気、と答えた。
向こうの町の話を、少し、した。
聞いた。
落ちる場所は、やはり、無かった。
無いことを、孫娘には、言わない。
夜、台所の窓から、給水塔を見る。
灯が、ついている。
孫娘は、いま、別の灯を、見ている。
別の灯のことを、こちらは、考えない。
考える場所が、無い。
無い場所を、考えないことで、こちらは、七十八年、この町の裏まで、彫れた。
裏まで彫った一つの中に、孫娘の、九月までの顔が、ある。
九月からの顔は、無い。
無い顔を、給水塔の灯の下で、毎晩、見ている。
見えない顔を、見ている。
見えないところは、こちらが、彫らなかったところだ。
彫らなかったことを、後悔は、していない。
後悔する場所が、無い。
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