玄関の靴
一つしか知らないこと

朗読で聴く
第一章 一人
八十一になった。
夫は、半年前に死んだ。
六十年、一緒にいた。
二十一で、嫁いだ。
嫁ぐ前は、父と母と兄がいた。
父と母と兄は、家族だった。
家族は、人ではなかった。
最初から、そこにいるものだった。
嫁いだ日に、初めて、夫を見た。
見合いの写真は、あった。
写真は、人ではない。
玄関で、靴を脱いでいる背中を、見た。
知らない背中だった。
知らない背中が、その日から、人というものになった。
人というものを、こちらは、夫で知った。
夫で、しか、知らなかった。
娘が、二人いる。
娘は、人ではない。
娘だ。
こちらから、出てきた。
出てきたものを、人とは、呼べない。
隣の奥さんとは、五十年、話している。
毎朝、ごみを出すときに、話す。
五十年、話して、隣の奥さんが、何を怖がっているのかを、知らない。
知らなくて、済んでいた。
その距離には、何も、彫られていない。
彫られているのは、一人だけだった。
一人は、裏まで、彫られていた。
第二章 裏まで
夫のことなら、全部、言える。
寝返りは、右にしか打たない。
湯は、熱いのを嫌がる。
嫌がるのに、熱いままで入る。
箸は、置くとき、必ず、こちらの側に寄せる。
機嫌が悪いときは、新聞を、たたまない。
たたまない新聞を、こちらがたたむと、機嫌が、直る。
直るまでに、いつも、二時間かかる。
嘘をつくときは、口の右側が、先に動く。
六十年で、四度、動いた。
四度とも、何の嘘かを、こちらは知っていた。
知っていて、言わなかった。
黙るときの、息の長さで、何を考えているかが、分かる。
分かるのが、人というものだと、こちらは思っていた。
人はこういうものだ、と、思っていたことは、全部、夫のことだった。
人は、右に寝返りを打つ。
人は、熱い湯を嫌がる。
人は、嘘をつくとき、口の右側が動く。
そう思っていた。
夫のほかに、確かめる相手が、いなかった。
確かめる必要も、無かった。
一人で、足りていた。
足りているものは、知っている、とは言わない。
空気を、知っている、とは言わないのと、同じだ。
第三章 半年前
半年前に、夫が死んだ。
病院で、死んだ。
最後の息は、長かった。
長い息の意味を、こちらは、知っていた。
何も考えていない、という意味だった。
それで、よかった。
看護師が、ご主人はどんな人でしたか、と聞いた。
答えられなかった。
どんな、というのは、ほかと比べる言葉だ。
比べるほかを、こちらは、持っていない。
夫は、夫だった。
人は、人だった。
それしか、言えなかった。
葬式で、娘の夫が、こちらの手を握った。
手が、違った。
人の手は、夫の手だと、思っていた。
違う手だった。
温かさが、違った。
握る強さが、違った。
違うことに、驚いた。
驚いたことに、あとで、驚いた。
六十年、人の手を、一つしか、握っていなかった。
夫が死んで、人が、無くなった。
夫が無くなったのではない。
人が、無くなった。
こちらの中で、人と呼べるものが、一人しかいなくて、その一人が、いなくなった。
家に帰って、夜、布団に入った。
右に寝返りを打つ音が、無かった。
音が無いことで、目が覚めた。
六十年、その音で、眠っていた。
眠らせていたのは、夫ではなく、人の音だった。
娘は、いる。
隣の奥さんも、いる。
人は、いない。
第四章 話し相手
娘に、言われた。
お母さん、誰か、話し相手を作ったら。
考えた。
作る、という言葉の、置き場が無かった。
夫を、作った覚えは、無い。
嫁いだら、そこにいた。
いたものを、六十年かけて、裏まで彫った。
彫るつもりも、無かった。
毎日、見ていたら、彫れていた。
いまから、誰かを、そこまで彫ることは、できない。
できない、というのは、違う。
彫る板が、もう、無い。
板は、一枚だった。
一枚に、一人を、彫った。
隣の奥さんが、ごみの日に、言った。
寂しいでしょう。
寂しい、と答えた。
答えながら、寂しいのではない、と思った。
寂しいというのは、人がいて、遠いことだ。
こちらには、遠い人が、いない。
人が、いない。
それを言う言葉が、無かったので、寂しい、と言った。
隣の奥さんは、うなずいて、家に入った。
五十年、そういうふうに、話してきた。
近所の会に、一度、行った。
女たちが、夫の話をしていた。
前の夫の話をする人がいた。
兄の話をする人がいた。
若いころに好きだった人の話をする人がいた。
みんな、人を、二人以上、知っていた。
知っている人が、二人以上あると、比べられる。
比べると、人というものが、分かる。
こちらは、比べたことが、無い。
一人しか、知らない。
一人しか知らないと、その一人が、人の全部になる。
人の全部が、半年前に、死んだ。
会には、それから、行っていない。
行かないことを、娘には、言っていない。
第五章 黒いところ
玄関に、夫の靴が、ある。
片付けていない。
紐は、左から結ぶ。
夫は、左から結んだ。
右からは、一度も、結ばなかった。
かかとは、外側が、減っている。
紐の先は、右だけが、少し、ほつれている。
歩き方が、そうだった。
減り方まで、こちらは、知っている。
靴のことなら、履いていた人のことなら、全部、知っている。
知っている、と、六十年、言わなかった。
言う相手が、いなかった。
言う相手は、その靴を履く人だった。
靴を、見ている。
見ていて、一つ、分からないことがある。
夫は、こちらを、一人しか知らない人として、知っていたかどうか。
夫には、ほかに、彫られた人が、いたかどうか。
嫁ぐ前の夫のことを、こちらは、知らない。
聞かなかった。
聞く場所が、無かった。
裏まで彫った一人の中に、一か所だけ、彫っていないところがある。
それは、夫が、こちらを、どう知っていたか、だ。
夫の側から見たこちらを、こちらは、知らない。
知らないのではない。
そこは、彫られていない。
黒い。
六十年、その黒いところを、見ないで、済んだ。
見なくても、夫が、いた。
いまは、黒いところだけが、はっきり、見える。
光っている一人の中の、一か所の黒だ。
周りが白いので、余計に、黒い。
エピローグ
娘が、靴を、片付けようか、と言った。
まだ、と言った。
まだ、の先を、聞かれなかった。
聞かれても、答えは、無かった。
夜、玄関に降りる。
靴が、ある。
紐は、左から、結ばれている。
結んだのは、夫だ。
最後に結んだのが、いつだったかを、知っている。
病院へ行く朝だ。
こちらは、見ていた。
見ていたことを、夫は、知らない。
知らないまま、死んだ。
一人しか、知らない。
一人は、裏まで、知っている。
裏まで知っている一人に、一か所、黒いところがある。
黒いところに、こちらが、いる。
夫が見ていたこちらが、そこに、彫られないまま、いる。
毎晩、靴の前で、それを、見ている。
見えないものを、見ている。
見えないところに、こちらが、いる。
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