にがり
一つしか知らないこと

朗読で聴く
第一章 五十二年
七十四になった。
豆腐屋だった。
父の店だった。
二十二のとき、店に入った。
父が豆を挽いて、こちらがにがりを打った。
母が売って、弟が運んだ。
母が死んで、妻が売った。
父が死んで、豆を挽くのは、町の若い衆に頼んだ。
弟は、最後まで運んだ。
こちらは、五十二年、にがりを打った。
それだけを、やった。
最初の三年は、父の横で、見ていた。
父は、教えなかった。
手を入れろ、とだけ言った。
入れた。
熱かった。
毎朝、入れた。
三年目に、父が、柄杓を渡した。
渡されてから、一度も、返していない。
朝の三時に起きる。
豆乳が、桶に張られている。
手を入れる。
温度を、手で見る。
柄杓で、にがりを打つ。
打って、待つ。
固まる。
それで、終わる。
一日に、三度。
五十二年、毎日。
豆を仕入れるのは、弟だった。
帳面は、妻だった。
値段を決めるのも、妻だった。
どこの豆を使っているのかは、聞かなかった。
聞かなくても、豆乳は、桶に張られていた。
張られているところから、こちらの仕事だった。
固まったところで、こちらの仕事は、終わった。
その前と、そのあとは、こちらのものではなかった。
第二章 裏まで
にがりのことなら、全部、言える。
夏と冬で、打つ量が違う。
同じ夏でも、朝と昼で違う。
豆が新しい年と、古い年で違う。
水が冷たい日は、手を入れた瞬間に、分かる。
分かって、量を変える。
変えるのは、柄杓の傾きだ。
傾きを、言葉で言うことは、できない。
息子に、一度、聞かれた。
どれくらい入れるのか。
これくらい、と、手を傾けた。
息子は、それを、見た。
見ても、分からない、と言った。
分からなくて、いい、と言った。
見て分かるものなら、五十二年、要らなかった。
言葉では言えないが、手は、毎朝、正しい傾きにしていた。
固まったあとの、表面の色で、次の日の量が分かる。
色を見て、翌朝、変える。
五十二年、毎朝、変えた。
同じ量を打った日は、一日も無い。
それを、知っている、とは言わない。
空気のことを、知っている、とは言わないのと同じだ。
にがりは、こちらにとって、空気だった。
裏まで、全部、あった。
裏まで、あるものは、一つだけだった。
ほかのことは、おもても、無かった。
第三章 閉めた
去年、店を閉めた。
弟が、死んだ。
運ぶ手が、無くなった。
弟が、どこへ運んでいたのかを、こちらは知らなかった。
弟も、にがりの量を、知らなかった。
二人で、一つの店だった。
一つの店の、半分ずつしか、持っていなかった。
豆を、どこから仕入れていたのかも、知らなかった。
妻が、帳面を、開いた。
こちらは、帳面の、読み方を知らなかった。
息子は、東京にいる。
継がない。
継がないことは、二十年前から、分かっていた。
閉めるしか、無かった。
閉めるのに、三日かかった。
三日のあいだ、こちらは、朝の三時に起きて、桶を洗った。
豆乳は、張られていなかった。
張られていない桶に、手を入れた。
温度が、無かった。
無い温度を、手が、探した。
探して、何も無いのを、確かめて、手を出した。
三日、それをした。
四日目に、桶を、干した。
干した桶を、妻が、見ていた。
何も、言わなかった。
妻は、五十年、売った。
誰が買いに来るかを、妻は、全部、知っている。
こちらは、一人も、知らない。
買った人の顔を、一度も、見ていない。
固まった豆腐が、桶から出て、そのあとどこへ行くのかは、こちらのものではなかった。
妻には、それが、ある。
こちらには、無い。
同じ店で、五十年、隣にいて、持っているものが、まるで違った。
第四章 出てこなかった
閉めてから、妻に聞かれた。
何か、したいことは、あるか。
考えた。
出てこなかった。
したいことが、無いのではない。
したいことが、ある場所が、無かった。
近所からも、聞かれた。
豆腐のほかに、何かできることは。
考えた。
出てこなかった。
できないのではない。
できる、できないの、前が無い。
息子から、電話が来た。
何か、始めればいい、と言った。
何を、と聞いた。
息子は、いくつか、言った。
聞いているあいだ、どれも、こちらの中に、置く場所が無かった。
置く場所が無いものは、聞いても、落ちていく。
落ちたあとに、何も、残らない。
一つのことを、極めた人だ、と、誰かが言った。
違う、と思った。
極めたのではない。
ほかを、彫らなかっただけだ。
黒い板に、一つだけ、白い線で彫った。
彫ったところは、裏まで、彫った。
彫らなかったところは、黒いままだ。
黒いところは、暗いのではない。
無い。
彫っていないものは、そこに、無い。
知らないのではない。
知らないというのは、そこに何かがあって、それを、こちらが持っていないことだ。
こちらには、そこが、無い。
無いものは、困らない。
五十二年、困らなかった。
豆乳は、張られていた。
張られているところから、始めればよかった。
困らないことに、去年、はじめて、困った。
第五章 三時
いまも、朝の三時に、目が覚める。
手が、温度を探す。
布団の中で、探す。
何も無いのを、確かめて、また、眠る。
眠れない日は、店に降りる。
桶が、干したまま、ある。
柄杓が、桶のふちに、掛けてある。
持つ。
手が、傾きにする。
正しい傾きだ。
打つものは、無い。
無いものに、正しい傾きで、手が、止まっている。
止まっているあいだ、こちらは、全部、知っている。
夏の量も、冬の量も、新しい豆の量も、古い豆の量も。
全部、手の中に、ある。
手の中にだけ、ある。
それが、いま、どこにも、要らない。
要らないことと、無いことは、違う。
要らないものは、ある。
あるから、要らない、と言える。
無いものは、要らない、とも、言えない。
言う前が、無い。
にがりは、要らなくなっただけで、こちらの中に、ある。
ほかのものは、要る、要らないの、前から、無い。
一つしか、知らない。
一つは、裏まで、知っている。
裏まで知っている一つと、最初から無いほかのものと、それだけで、五十二年、生きた。
生きられた。
困らなかったからだ。
困らなかったことが、いちばん、困っている。
エピローグ
息子が、正月に来た。
桶を見て、捨てないのか、と言った。
捨てない、と言った。
なぜ、とは、聞かれなかった。
聞かれても、答えは、出てこなかった。
柄杓を、持たせた。
息子は、柄杓を、持った。
手が、傾きにならなかった。
当たり前だ。
息子には、そこが、彫られていない。
息子には、ほかが、彫られている。
こちらには、無いほかが。
柄杓を、返してもらった。
手が、傾きになった。
打つものは、無い。
無いものの上で、手だけが、正しい。
正しいまま、置いた。
置いたところが、光っている。
周りは、黒い。
黒いのは、こちらが、彫らなかったからだ。
彫らなかったことを、後悔は、していない。
後悔する場所が、無い。
無い場所のことを、去年から、毎朝、三時に、考えている。
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