四つの脚
手放したこと

朗読で聴く
第一章 引き取り
五十八になった。
娘のピアノを、三年前に、手放した。
娘は、二十四で、家を出た。
東京の、狭い部屋に、ピアノは、入らない。
置いていく、と娘は言った。
置いていかれて、二年、居間にあった。
誰も、弾かなかった。
ひけるのは、娘だけだ。
こちらは、弾けない。
弾けないものが、居間の、いちばんいい場所にあった。
窓のそばだ。
ピアノは、娘が六つのとき、中古で買った。
二十二万円だった。
夫と、半年、相談して買った。
買ったときは、値段があった。
出ていくときは、無かった。
十八年で、二十二万円が、ゼロになった。
ゼロになったものを、居間のいちばんいい場所に、置いていた。
三年前の春、引き取りの業者を、呼んだ。
無料だった。
古いので、値段がつかない、と言われた。
値段がつかないものを、四人で、運び出した。
運び出すのに、二十分かかった。
二十分で、十八年が、玄関を出た。
娘には、事後に、言った。
そう、とだけ、言った。
怒らなかった。
怒らなかったことが、こちらには、少し、応えた。
運び出したあと、床を、拭いた。
ピアノの下は、十八年、拭いていない。
埃が、長方形に、溜まっていた。
長方形の埃を、拭いた。
拭くと、その下に、もう一つ、長方形があった。
埃ではない。
床の色だ。
拭いても、取れない。
取れないもののほうが、埃より、はっきりしていた。
第二章 床
ピアノが出たあと、床に、四つの丸が、残った。
脚の跡だ。
直径、五センチほど。
十八年、同じところに、同じ重さがかかっていた。
跡の中は、床の色が、濃い。
周りは、日に焼けて、薄くなっている。
脚の下だけ、焼けなかった。
濃いところと、薄いところの、境目が、丸い。
四つ、ある。
数えなくても、四つだと、分かる。
四つの丸は、長方形に、並んでいる。
長方形の中は、少し、色が違う。
ピアノの腹の、真下だ。
そこも、焼けていない。
薄い長方形の四隅に、濃い丸が、四つ。
それが、いまの、居間の、いちばんいい場所だ。
絨毯を、敷こうと思った。
敷いていない。
敷くと、見えなくなる。
見えなくなると、忘れる。
忘れるのが、こちらの、目的のはずだった。
目的のはずのことを、していない。
夫は、床が沈んでいる、と言う。
四つの丸のところを、足で押す。
少し、沈む。
十八年の重さで、床の下の木が、たわんだ。
張り替えれば、直る、と夫は言う。
直さない。
直すと、丸も、長方形も、無くなる。
夫は、それ以上、言わない。
言わないのは、夫も、六時の音を、聞いていたからだ。
第三章 掃除機
掃除機を、かける。
居間を、窓のほうへ、かけていく。
四つの丸のところで、一度、止まる。
止めているのではない。
止まる。
手が、そこで、いつも、少し戻る。
ピアノがあったとき、脚の周りは、掃除機が入らなかった。
入らないので、手で、拭いていた。
その手の動きが、掃除機を持った手に、残っている。
脚は無いのに、脚をよけている。
よけて、戻って、また、進む。
三年、これをしている。
娘には、言っていない。
言えば、笑う。
笑われて、いい話だ。
笑われて、いい話を、言わないでいる。
言わないのは、笑われると、掃除機が、止まらなくなる気がするからだ。
止まらなくなったら、そこは、ただの床になる。
ただの床にするために、手放した。
手放して、ただの床に、なっていない。
業者は、床のことを、何も言わなかった。
跡が残りますよ、とも、言わなかった。
言われていたら、やめたかもしれない。
言われなかったので、手放した。
手放してから、跡を知った。
知ってから手放す人は、いないのかもしれない。
第四章 弾いていた時間
手放したのは、ピアノだと思っていた。
違った。
手放したのは、娘が弾いていた時間の、置き場だ。
夕方の、六時から七時。
小学生のときから、高校を出るまで。
こちらは、台所にいた。
台所から、聞いていた。
上手いか下手かは、分からない。
毎日、同じ時間に、同じ音が、居間から来た。
その音が、こちらの、夕方だった。
同じ曲を、何か月も、弾いていた。
つっかえるところが、決まっていた。
つっかえる場所で、こちらの手も、包丁を、一瞬、止めた。
止めて、次の音が出ると、また、切った。
娘のつっかえる場所を、こちらの包丁が、覚えていた。
いまも、六時に、包丁が、一瞬、止まることがある。
止まる理由は、居間には、無い。
無いのに、止まる。
娘が出て、音が無くなった。
無くなったあとも、ピアノは、そこにあった。
あるあいだは、音の置き場が、あった。
置き場を、手放した。
置き場を手放すと、時間は、床に残る。
四つの丸と、薄い長方形として。
六時に、台所に立つ。
居間のほうを、見る。
長方形が、ある。
あれが、こちらの、六時だ。
六時は、手放していない。
手放せるものではなかった。
業者は、四人で、ピアノだけを、運んでいった。
六時は、重さが無いので、床に、置いていかれた。
第五章 娘
娘が、盆に、帰ってくる。
居間に入って、床を、見る。
見て、何も言わない。
何も言わないで、四つの丸の、内側に立つ。
長方形の中だ。
そこに立って、窓の外を、見る。
娘が、そこに立つ理由は、無い。
無いのに、立つ。
ピアノの前に、座っていた場所ではない。
ピアノがあった場所の、中だ。
弾いていた人が、弾いていたものの、跡の中に、立つ。
こちらは、台所から、それを見る。
六時ではない。
昼だ。
昼でも、そこに娘が立つと、六時の音が、少し、する。
しないのは、分かっている。
分かっていて、する。
娘は、一分ほど立って、出てくる。
出てきて、お茶、と言う。
お茶を、入れる。
入れながら、こちらは、四つの丸を、まだ絨毯で隠していないことを、よかったと思う。
隠していたら、娘は、立つ場所が無い。
娘は、ピアノのことを、一度も、聞かない。
どこへ行ったのかも、聞かない。
聞かないで、跡の中に、立つ。
立つことが、娘の、聞き方なのだと思う。
こちらは、答えない。
答えないで、お茶を入れる。
入れることが、こちらの、答え方だ。
エピローグ
今日、掃除機をかけた。
四つの丸で、止まった。
止まって、戻って、進んだ。
三年目の、いつもの動きだ。
止まったとき、手が、ピアノの脚を、よけていた。
無い脚を、よけている手を、見た。
見て、思った。
手放したものは、床にも、手にも、残っている。
残っていないのは、居間の、いちばんいい場所だけだ。
いちばんいい場所は、空いている。
空けたのは、こちらだ。
空けて、何も、置いていない。
置くものが、無い。
置けるものは、あの重さのものしか、無かった。
あの重さは、無料で、出ていった。
値段がつかなかったものが、いちばん、重かった。
重かったものの跡を、掃除機が、毎週、よけている。
よけられている跡は、まだ、四つある。
薄くなっていない。
薄くなるのは、いつか、周りの床が、同じ色に焼けたときだ。
その日まで、四つある。
四つあるあいだ、六時は、床にある。
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