畑
手放したこと

朗読で聴く
第一章 売った
六十七になった。
父の畑を、十年前に売った。
三反あった。
家の裏から、川まで、続いていた。
父が四十年、こちらが二十三年、耕した。
売ったのは、こちらだ。
膝が悪くなって、続けられなくなった。
子どもは、継がなかった。
継がないことは、分かっていた。
分かっていて、売った。
業者が来て、測って、金額を言った。
言われた金額で、売った。
値切りもしなかったし、上げもしなかった。
畑は、半年で、住宅になった。
六軒、建った。
六軒の家が、いま、父の畑の上に、ある。
お金は、屋根の修理と、膝の手術と、娘の家の頭金になった。
三年で、無くなった。
無くなったことに、後悔は無い。
使うために、売った。
使った。
それで、済んでいるはずだった。
父は、死ぬ前に、畑は好きにしろ、と言った。
好きにしろ、と言われて、売った。
好きにした。
好きにしたことに、文句を言う人は、いない。
いないのに、こちらが、こちらに、言っている。
言っているのは、口ではない。
朝の手と、通るときの足だ。
最後の収穫の日、ひと畝だけ、残した。
残した理由は、無い。
全部取ると、終わる気がした。
ひと畝、取らないで、業者に渡した。
業者は、そのまま、重機で、返した。
ひと畝ぶんの大根が、土の中に、入った。
あれが、こちらの、最後の畑仕事だ。
取らなかったことが、最後の仕事になった。
第二章 土間
家の土間に、壁がある。
壁に、鍬を掛けていた。
父のときから、同じ釘に、同じ鍬だ。
売ったとき、鍬も、手放した。
業者が、まとめて、持っていった。
釘は、抜いた。
抜いた釘の穴を、埋めた。
埋めた壁に、鍬の形が、残っている。
鍬があった部分だけ、壁の色が、違う。
周りは、四十年ぶん、日に焼けている。
鍬の裏だけ、焼けていない。
柄の細い形と、刃の広い形が、薄い色で、壁にある。
鍬は、無い。
鍬を持っていったのは、業者の若い人だった。
まとめて、軽トラックに積んだ。
積むとき、柄を、下にした。
父は、柄を上にして持てと、言っていた。
言おうとして、やめた。
もう、こちらの鍬ではない。
こちらの鍬でないものの持ち方を、こちらが、言えない。
言えないまま、軽トラックが、出ていった。
妻は、あの壁を、知っている。
知っていて、触らない。
掃除のとき、壁は、拭く。
鍬の形のところだけ、拭かない。
拭くと、消えるかもしれないと、思っている。
思っていることを、言わない。
言わないで、避けて拭く。
避けて拭かれた壁が、十年、そこにある。
二人で、一つの色の違いを、守っている。
守っているとは、二人とも、言わない。
鍬の形だけが、壁の色の違いとして、ある。
塗り直せば、消える。
塗っていない。
塗る理由が無いと、思っている。
塗らない理由も、無い。
無いまま、十年、そこにある。
朝、土間に降りると、手が、そこへ伸びる。
伸びて、壁に触る。
触って、何も無いのを、確かめる。
確かめてから、靴を履く。
畑に行く支度を、手が、している。
行く畑は、無い。
無いのに、支度だけが、手に残っている。
第三章 使えないもの
お金は、使った。
使えるものは、全部、使った。
残ったのは、使えないものだけだ。
壁の色の違い。
朝の手の動き。
膝の、畑の土の上で覚えた、曲げ方。
膝は、手術で、新しくなった。
新しい膝で、畑の土の上には、立っていない。
立っていないのに、しゃがむと、畝の幅に、足が開く。
六十センチだ。
父が決めた幅だ。
新しい膝が、古い幅を、覚えている。
医者は、膝は新品です、と言った。
新品の膝に、六十センチが、入っている。
入れたのは、こちらではない。
二十三年が、入れた。
覚えているものを、手術では、取り替えられなかった。
どれも、何にも、使えない。
使えないので、売れない。
売れないので、残っている。
売ったとき、こちらは、畑の全部を売ったつもりだった。
全部ではなかった。
使えるところだけが、売れた。
使えないところは、値段がつかなくて、こちらに残った。
値段のつかないものが、十年、こちらの手にある。
手にあるものが、手放したものより、多い気がする。
多い気がするのは、使えないものは、減らないからだ。
お金は減る。
壁の色は、減らない。
第四章 六軒
六軒の家の前を、通る。
どの家も、庭が小さい。
小さい庭に、鉢が並んでいる。
鉢の中に、土がある。
あの土は、父の畑の土ではない。
造成で、全部、入れ替えた。
父の土は、どこかへ、運ばれた。
どこへかは、聞いていない。
聞けば、教えてくれただろう。
聞かなかった。
聞くと、土のことを、まだ自分のものだと思っている人になる。
売った人は、そう思ってはいけない。
思ってはいけないと、決めている。
決めているのに、六軒の前で、足が、少し、遅くなる。
遅くなる足を、こちらは、止められない。
止められないのを、誰も、見ていない。
六軒の人は、ここが畑だったことを、知らない。
知らない人の庭を、こちらは、畑だった目で、見ている。
畑だった目は、売れなかった。
目も、使えないものの、一つだ。
六軒目の家の子が、庭で、鉢に水をやっている。
やり方が、多い。
多すぎて、根が腐る。
教えたい。
教えない。
教えると、畑だった人になる。
畑だった人は、六軒の前では、通る人でいなければならない。
通る人が、鉢の水を、見ている。
見ているだけで、通り過ぎる。
通り過ぎたあとも、水の量が、目に残る。
残った量を、どこにも、使えない。
第五章 鍬の形
鍬の形を、塗り潰さない理由が、この頃、分かってきた。
塗ると、手が、行き先を失う。
朝、土間に降りて、手が、壁に伸びる。
伸びた先に、色の違いがある。
色の違いがあるから、手は、そこで、止まっていられる。
無ければ、手は、止まる場所が無い。
止まる場所の無い手が、何をするか、分からない。
分からないのが、怖い。
だから、色の違いを、残している。
残しているのは、畑のためでも、父のためでもない。
こちらの、朝の手のためだ。
手放したものの痕を、手放した手が、毎朝、使っている。
使えないものだと思っていた。
使っていた。
痕は、使えないのではなかった。
お金のようには、使えないだけだった。
減らない使い方を、手が、知っていた。
エピローグ
今朝も、土間に降りた。
手が、壁に伸びた。
鍬の形に、触った。
柄のところから、刃のところまで、なぞった。
なぞって、靴を履いた。
畑には、行かない。
六軒の前を通り、駅まで歩く。
六軒目の庭に、鉢が一つ、増えていた。
増えたのを、見た。
見て、足が、遅くなった。
遅くなった足で、通り過ぎた。
売ったものは、六軒になった。
手放さなかったものは、壁の色と、手と、足と、目だ。
手放さなかったのではない。
手放せなかった。
値段が、つかなかった。
値段のつかないものだけで、こちらは、十年、畑をしている。
畑は、無い。
無い畑を、使えないもので、毎朝、耕している。
耕した土は、どこにも、無い。
無いところに、手が、伸びる。
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