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木曜日

嘘をついたままでいること

木曜日

朗読で聴く

第一章 一文

五十八になった。

オハイオの、町の食堂で、三十一年、働いている。

朝の六時から、昼の二時までだ。

カウンターと、窓際の席が四つと、奥の席が三つある。

木曜日に、来る客がいる。

二十年、木曜日に来る。

窓際の、いちばん奥の席に座る。

コーヒーを先に頼み、卵を二つ、それから、トーストだ。

二十年、同じだ。

二十年前、その客の妻が死んだ。

葬式の次の週の木曜日に、客は来た。

カウンターに座った。

コーヒーを頼んで、飲まなかった。

こちらは、何か言わなければ、と思った。

思って、言った。

奥さん、先週、ここに来て、あなたのことを話していましたよ。

窓の席は、いつもあの人が譲ってくれる、って。

客は、こちらを見た。

長く、見た。

それから、そうか、と言った。

そうか、の声が、来たときより、少し、低かった。

それから、コーヒーを飲んだ。

その一文が、二十年前だ。

第二章 来ていない

妻は、来ていない。

一度も、来ていない。

来ていれば、覚えている。

三十一年、この店に来た人の顔は、全部、覚えている。

覚えていないのだから、来ていない。

こちらは、その人の顔を、知らない。

葬式の写真で、初めて見た。

窓の席のことも、知らない。

客が、窓の席を妻に譲る人かどうかも、知らない。

知らないことを、知っているように、言った。

言ったのは、客の前のコーヒーが、冷めていったからだ。

冷めていくのを、見ていられなかった。

何か、あたたかいものを、出さなければ、と思った。

出せるものが、言葉しかなかった。

言葉を、作った。

作ったことに、言い終わってから、気がついた。

気がついたときには、客が、そうか、と言っていた。

そうか、のあとに、言い直す場所は、無かった。

無いまま、二十年になった。

第三章 覚えていること

次の木曜日、客は、窓際の、いちばん奥の席に座った。

カウンターではなかった。

それから、二十年、その席だ。

こちらの一文が、席を決めた。

妻が譲ってくれていた席に、客は、座っている。

譲られたことは、一度も無い。

無いことを、こちらが作って、客は、そこに座っている。

年に何度か、客は、聞く。

あのとき、妻は、なんて言っていたんだった。

こちらは、答える。

窓の席は、いつもあの人が譲ってくれる、って。

一字も、変えない。

変えたら、作ったものだと、分かってしまう。

本当に聞いた言葉なら、言うたびに、少しずつ変わる。

変わらないのは、作ったものだからだ。

客は、それに、気づいていない。

気づいていないと、こちらは、思っている。

紙には、書いていない。

書いたら、それは、作ったものになる。

口の中に、置いてある。

木曜日の朝、店を開ける前に、一度、口の中で言う。

窓の席は、いつもあの人が譲ってくれる、って。

二十年、木曜日の朝に、一度ずつ、言っている。

千回を、少し、超えた。

一度だけ、危なかった。

五年ほど前、客に聞かれて、いつも、を、よく、と言いかけた。

よく、まで出て、止めた。

止めて、いつも、と言い直した。

客は、気づかなかった。

こちらは、その日、帰ってから、台所で、十回、言った。

いつもあの人が譲ってくれる、って。

一字が変わると、作ったものが、もう一つ増える。

増やさないために、十回、言った。

千回言っても、一度も、本当にはならない。

ならないことを、確かめるために、言っているのかもしれない。

第四章 卵を二つ

客の娘が、一度、店に来たことがある。

十年ほど前だ。

父が世話になっています、と言った。

それから、父に言ってくださったこと、ありがとうございます、と言った。

母のことです、と。

こちらは、何も言わなかった。

カウンターを、拭いた。

拭きながら、うなずいたかどうか、覚えていない。

娘は、コーヒーを飲んで、帰った。

それきり、来ていない。

娘にも、あの一文は、渡っている。

渡った先で、本当になっている。

本当になっているものを、こちらだけが、作ったと知っている。

客は、七十を過ぎた。

卵は、二つのままだ。

トーストは、一枚に減った。

コーヒーは、減っていない。

木曜日に来ない週が、去年、二度あった。

二度とも、翌週に来た。

入院していた、と言った。

こちらは、席を、空けておいた。

木曜日の朝、窓際のいちばん奥に、誰も座らせなかった。

誰も座らせないことは、店の決まりではない。

こちらの、決まりだ。

あの席は、妻が譲った席だ。

譲った、と、こちらが言った席だ。

言ったことを、こちらが、守っている。

客のためではない。

あの朝、コーヒーの冷めていく前で、言葉を作った、自分のためだ。

あの一文を、本当にすることは、できない。

できないので、あの一文の、周りだけを、本当にしている。

席を空けること。

一字も変えないこと。

木曜日に、店にいること。

周りが本当なら、真ん中は、見えない。

見えないところに、あの一文が、置いてある。

第五章 言えばいい

言えばいい、と、思うことがある。

あれは、わたしが作った言葉です、と。

奥さんは、一度も、来ていません、と。

言えば、こちらは、軽くなる。

軽くなったぶん、客の二十年が、重くなる。

客は、二十年、妻が譲った席に座ってきた。

譲られていなかった、と知ることになる。

二十年、座ってきた席が、ただの窓際の席になる。

それは、こちらには、できない。

できないのは、やさしさではない。

やさしさなら、あの朝、言葉を作らなかった。

作ったのは、コーヒーが冷めるのを、見ていられなかった、こちらの弱さだ。

弱さで作ったものを、二十年、強さで、支えている。

支えているあいだは、客は、譲られた席に、座っていられる。

こちらが、店を辞めるまでだ。

辞めたあと、客が来て、あの一文を聞く相手がいない。

いないなら、聞かれない。

聞かれなければ、あの一文は、客の中で、本当のままだ。

こちらの中でだけ、作ったもののままだ。

それで、いい。

いいと、決めている。

エピローグ

今日は、木曜日だ。

六時前に、店を開けた。

開ける前に、口の中で、一度、言った。

窓の席は、いつもあの人が譲ってくれる、って。

七時に、客が来た。

窓際の、いちばん奥に、座った。

コーヒーを先に、卵を二つ、トーストを一枚。

こちらは、コーヒーを置いて、少し、待った。

客は、何も聞かなかった。

聞かれない木曜日のほうが、多い。

聞かれない木曜日にも、こちらは、覚えている。

覚えていることが、こちらの、木曜日だ。

客が、コーヒーを飲んだ。

冷める前に、飲んだ。

二十年前は、冷めた。

冷めたコーヒーの前で、言葉を、一つ作った。

作った言葉が、二十年、窓際の席に座っている。

こちらは、それを、カウンターの中から、見ている。

見ているあいだだけ、本当のことを、していると思える。

客が帰るとき、また来週、と言う。

また来週、と、こちらも言う。

これは、作った言葉ではない。

来週も、木曜日に、店にいる。

窓際の、いちばん奥を、空けておく。

いて、口の中で、一度、言う。

ソウルミッション358

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