湯呑み
嘘をついたままでいること

朗読で聴く
第一章 割れた音
七十二になった。
娘は、四十だ。
娘が五つのとき、台所で、音がした。
こちらは、居間にいた。
行くと、床に、湯呑みが割れていた。
こちらの母の、湯呑みだった。
母が、毎日、使っていたものだ。
母は、その前の年に死んでいた。
死んでから、こちらが、その湯呑みで茶を飲んでいた。
娘は、割れたものの横に、立っていた。
手を、うしろに回していた。
泣いていなかった。
泣く前の顔だった。
妻が、風呂場から出てきた。
何の音、と言った。
こちらは、言った。
父さんが、落とした。
娘が、こちらを見た。
妻は、あら、と言って、ほうきを取りに行った。
娘は、こちらを見たままだった。
こちらは、娘を見なかった。
床を、見ていた。
それだけだ。
三十五年前の、それだけだ。
なぜ、そう言ったのか。
娘のためだと、長く思っていた。
五つの子に、死んだ祖母の湯呑みを割った、と背負わせないためだ。
それは、ある。
あるが、それだけではなかった。
あのとき、こちらは、怒りそうだった。
母のものを割られて、五つの子に、怒りそうだった。
怒ったら、母のものより大事なものを、割ることになる。
だから、自分が落としたことにした。
落としたのが自分なら、怒る相手がいない。
怒らないために、ついた嘘だ。
娘をかばったのではなく、怒りそうな自分を、先に、片づけた。
第二章 持ってくる
娘は、覚えている。
覚えていることを、こちらは、あとで知った。
娘が、中学生のとき、湯呑みを一つ買ってきた。
あのときの、代わり、と言った。
あのとき、とだけ言って、それ以上は言わなかった。
こちらも、それ以上は聞かなかった。
ありがとう、と言って、受け取った。
それが、始まりだった。
それから、娘は、年に一つ、湯呑みを持ってくる。
誕生日でも、父の日でもない。
あの日だ。
あの日の、近くの、休みの日に来る。
湯呑みを一つ、持ってくる。
紙に包んで、袋に入れて、持ってくる。
安いものもあれば、そうでないものもある。
がらは、毎年、違う。
あのときの代わり、とは、もう言わない。
言わなくても、分かる。
こちらは、ありがとう、と言って、受け取る。
受け取って、棚に並べる。
棚には、二十六の湯呑みがある。
一つも、使っていない。
使えば、それは、代わりになる。
代わりになったら、母のものが、無くなる。
無くなったものの代わりは、代わりのままで、置いておく。
娘は、使ってと言わない。
言わないのは、分かっているからだ。
母のものは、無い。
母のものの代わりが、二十六ある。
第三章 どちらの嘘か
娘は、知っている。
自分が割ったことを、知っている。
こちらが、父さんが落とした、と言ったことも、知っている。
知っていて、代わりを持ってくる。
持ってくるのは、割ったからだ。
割ったのは自分だと、湯呑みで、言っている。
言葉では、言わない。
こちらも、言葉では、言わない。
あれは父さんが落とした、と、こちらは言ったままだ。
三十五年、言ったままだ。
娘が持ってくるたびに、こちらは、ありがとう、と言う。
ありがとう、は、割ったのはおまえだ、と言っているのと同じだ。
同じだが、言葉が違う。
言葉が違うので、嘘は、まだ、こちらのものだ。
娘は、こちらの嘘を、知っている。
知っていて、こちらに、つかせたままにしている。
つかせたままにして、代わりを持ってくる。
どちらが、どちらを、かばっているのか。
五つのときは、こちらが、娘をかばった。
いまは、分からない。
娘が、こちらの嘘を、割らないでいてくれている。
割らないことが、娘の、返し方だ。
湯呑みを持ってくることが、返し方だ。
返されているのは、湯呑みではない。
あの日、こちらが、床を見ていたことだ。
第四章 妻
妻は、あの日のことを、覚えていない。
覚えていないのは、こちらが落とした、で、話が終わったからだ。
終わった話は、覚えられない。
娘が割った、で終わっていたら、妻は覚えていただろう。
覚えて、ときどき、口にしただろう。
口にされるたびに、娘は、五つに戻る。
戻らせないために、話を、終わらせた。
終わらせたのは、こちらの一言だ。
一言で終わらせたものを、娘は、三十五年、終わらせていない。
父さんが落とした、で、終わっている。
娘が湯呑みを持ってくるのを、親孝行だと思っている。
あの子は、湯呑みが好きなのね、と言う。
そうだな、と、こちらは答える。
妻にも、嘘をついたままだ。
妻には、一度もついていない。
娘にも、一度もついていない。
ついたのは、あの日の、一回だ。
あとは、答えているだけだ。
そうだな、と答える。
ありがとう、と答える。
答えるたびに、あの一回が、そのままそこにある。
動かさないように、答えている。
棚の二十六の湯呑みは、動かさないための、重しだ。
娘が、重しを、一つずつ、持ってくる。
持ってくるたびに、動かなくなる。
娘は、それを、分かってやっている。
分かってやっていることを、こちらも、分かっている。
二人とも分かっていて、二人とも、言わない。
言わないので、三十五年、割れていない。
第五章 棚
棚は、こちらが作った。
最初の湯呑みを受け取ったあと、板を買ってきて、作った。
五つ並ぶ幅にした。
五つでは、足りなくなった。
十のときに、作り直した。
二十のときに、もう一段、足した。
いま、二十六だ。
あと四つで、三段目がいる。
娘が四十四になるとき、三段目を作る。
作れるかどうかは、分からない。
七十六だ。
作れなかったら、娘が作る。
娘は、きっと、作る。
作って、そこに、持ってきたものを並べる。
こちらが死んだあとも、たぶん、持ってくる。
仏壇の前に、置いていく。
置いていって、ありがとう、と言う相手がいない。
いなくても、置く。
置くことが、娘の、覚え方だ。
持ってくる先が、無くても、持ってくる。
あの日のことは、そういう形で、残る。
こちらの嘘は、こちらが死んだあとも、娘の中で、ついたままになる。
それで、いいと思っている。
いいと思っているのは、こちらの都合だ。
娘の都合は、聞いていない。
聞けば、割れる。
エピローグ
今年も、娘が来た。
湯呑みを、一つ、持ってきた。
白い、小さいものだった。
母のものに、少し、似ていた。
似ていることを、娘は、言わなかった。
こちらも、言わなかった。
ありがとう、と言った。
言ったあと、娘の顔を見た。
娘も、こちらを見ていた。
五つのときと、同じ目だった。
三十五年、変わっていない目だった。
先に、目をそらしたのは、こちらだ。
三十五年前と、同じだ。
そらした先が、床ではなく、棚だった。
棚に並べに、立った。
二十七になった。
並べて、少し、下がって、見た。
母のものは、一つも無い。
無いものの代わりが、二十七、並んでいる。
こちらの嘘の、二十七年ぶんだ。
娘が来なくなる日まで、増える。
増えるのが、こちらの、望みだ。
望んでいることを、娘には、言わない。
言わないことが、まだ、あと一つ、増えた。
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