私のほう
嘘をついたままでいること

朗読で聴く
第一章 一度だけ
六十三になった。
夫は、二年前に死んだ。
六十一だった。
子どもは、いない。
いないことを聞かれると、授からなくて、と答える。
それは、本当だ。
授からなかった。
どちらのせいで授からなかったかを、こちらは知っている。
夫は、知らなかった。
知らないまま、死んだ。
二十九のときだった。
結婚して、四年目だった。
病院に、二人で行っていた。
結果の日、夫は仕事で来られなかった。
こちらが、一人で聞いた。
医者は、夫のほうです、と言った。
言い方は、ていねいだった。
紙を見せながら、数字を指で押さえて、説明した。
こちらは、うなずいて、紙を受け取って、帰った。
帰る電車の中で、決めたわけではない。
決めた覚えは、ない。
家に帰って、夫が帰ってきて、どうだった、と聞かれた。
私のほうだって、と言った。
言ってから、自分の声を聞いた。
ふだんより、少し、低い声だった。
低くしたつもりは、無かった。
夫は、しばらく黙って、そうか、と言った。
それだけだった。
それが、三十四年前だ。
第二章 そうか
夫は、長男だった。
夫の母は、孫を待っていた。
待っていることを、隠さない人だった。
私のほうだ、と夫が伝えたあと、夫の母は、こちらに冷たくなった。
冷たくなったことを、こちらは受け取った。
受け取るのが、筋だと思った。
筋が違うことは、こちらだけが知っていた。
夫の母は、月に一度、こちらを寺に連れていった。
子を授ける観音がある寺だった。
三年、かよった。
手を合わせるとき、中に、何も入れなかった。
入れるものが、無かった。
授かるはずのないことを、願うわけにはいかない。
願わないことを、隣で手を合わせている母に、知られるわけにもいかない。
だから、手だけを合わせた。
三年、三十六回、からの手を合わせた。
夫の母は、こちらの手を、信心が足りない、と言った。
足りないのは、信心ではなかった。
夫は、母に何も言い返さなかった。
言い返せば、こちらのせいだと言うことになる。
言い返さないことで、夫は、こちらをかばっていた。
かばわれていた。
かばう理由は、無かった。
無いことを、夫は知らなかった。
あるとき、夫が言った。
二人でいい、と。
二人でいいから、気にするな、と。
こちらは、ありがとう、と言った。
言いながら、宛名が違う、と思った。
やさしさは、こちらに向いていた。
向く先が、間違っていた。
間違えさせたのは、こちらだ。
もらったやさしさは、三十二年ぶん、宛名が違う。
返す先が、もう、無い。
第三章 覚えていること
嘘は、一度しかついていない。
二十九の夜の、あの一回だ。
あとの三十四年は、嘘をついていない。
覚えていただけだ。
覚えているというのは、思い出すことではない。
言葉を、選ぶことだ。
お子さんは、と聞かれる。
授からなくて、と答える。
これは、嘘ではない。
どうして、と聞かれる。
そういう巡り合わせで、と答える。
これも、嘘ではない。
嘘にならない言い方を、三十四年、選んできた。
嘘をついていない、というのは、正確ではない。
嘘の続きを、言っていないだけだ。
続きを言わなければ、最初の一回は、そこに置いたままでいられる。
置いたままにするために、その周りを、本当のことだけで囲っている。
かこいは、三十四年で、かなり高くなった。
高くなったかこいの中に、最初の一回が、ある。
一回しかないのに、かこいのほうが、ずっと大きい。
選ぶのは、一瞬だ。
一瞬を、一日に何度か、三十四年、している。
病院の紙は、捨てていない。
たんすの、いちばん低い引き出しの、奥にある。
封筒に入れたまま、一度も出していない。
出さなくても、数字は覚えている。
捨てなかったのは、あれだけが、こちらのほかに知っているものだからだ。
知っているものが、一つも無くなると、こちらが、本当になってしまう。
そう思って、捨てなかった。
封筒は、こちらの側にいる。
こちらの、たった一つの、味方だ。
味方を、引き出しの奥に、しまっている。
第四章 つらかったでしょう
夫の姉は、盆に、必ず来る。
仏壇に手を合わせて、こちらのほうを向いて、言う。
あなた、つらかったでしょう。
弟のこと、わたしは、分かっているから。
母のことも、悪かったわね。
ええ、と、こちらは答える。
ええ、としか、答えない。
姉は、弟がこちらをかばって、母に何も言わなかったことを、知っている。
そのことを、弟の、いいところだと思っている。
それは、そのとおりだ。
いいところだった。
いいところが、こちらの嘘の上に、立っている。
姉に本当を言えば、こちらは、楽になる。
楽になったぶん、夫のいいところが、置き場を失う。
かばうものが無かった、ということになる。
夫が三十二年、していたことが、無かったことになる。
それは、できない。
できないので、ええ、と言う。
盆のたびに、ええ、と言う。
言ったあと、姉の顔を見る。
姉は、うなずいている。
うなずくのを、見届けてから、お茶を入れに立つ。
夫は、死ぬまで、その話をしなかった。
三十二年、一度も、しなかった。
病院で、最後の月に、何か言うかと思った。
言わなかった。
言わないことが、夫の、やさしさの形だった。
その形の中に、こちらの嘘が、ぴったり入っていた。
入っていることを、夫は、知らなかった。
知らないまま、形だけを、こちらに残して、死んだ。
残された形を、こちらは、まだ、使っている。
姉に、ええ、と言うとき、その形を使っている。
夫の形を使って、夫に、嘘をつきつづけている。
死んだ人に嘘をつくのは、生きている人につくより、楽だ。
楽なことが、嫌だ。
第五章 守っているもの
守っているのは、夫だと思っていた。
夫が死んで、それが違うと分かった。
夫は、もう、いない。
守る相手は、いない。
それでも、ええ、と言っている。
守っているのは、二十九の夜の、あの一回の自分だ。
あの一回を、本当だったことにするために、あとの全部を、そろえている。
そろえているのは、相手のためではない。
あの一回が、嘘だと、あの一回の自分が、知ることになるからだ。
もう、知っている。
知っているのに、そろえている。
嘘をついたまま、というのは、そういうことだ。
ついた嘘を、抱えているのではない。
ついた自分を、抱えている。
抱えたまま、お茶を入れて、盆を片づけて、引き出しは、開けない。
エピローグ
今年の盆も、姉が来た。
つらかったでしょう、と言った。
ええ、と答えた。
答えたあと、姉の顔を見た。
見る間が、いつもより、少し長かった。
姉は、何も気づかなかった。
気づかれないことに、ほっとした。
ほっとしたことが、今年は、少しだけ、嫌だった。
嫌だったことを、誰にも言わない。
言わないことが、また一つ、増えた。
増えたものを、引き出しの奥の封筒の、隣に置く。
置く場所は、まだ、ある。
夫の姉は、来年も来る。
来年も、ええ、と言う。
言い終わったあと、顔を見る。
顔を見る間だけが、こちらのものだ。
三十四年、そのあいだだけで、生きている。
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