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灰色の側

どうでもよくなったこと

灰色の側

朗読で聴く

第一章 絵

六十八になった。

妻は、七十だ。

四十年、一緒にいる。

妻は、三年前に、絵を始めた。

近所の集まりで、誰かに勧められて、始めた。

始めて、半年で、変わった。

朝起きると、台所ではなく、居間の隅の机に行く。

そこに、絵の道具が置いてある。

昼まで、描いている。

昼を食べて、また描く。

夕方まで、描く。

描いているあいだ、話しかけても、返事が遅い。

遅いというより、届いていない。

届いていないのが、分かる。

分かるので、話しかけなくなった。

話しかけなくなったことに、妻は、気づいていないと思う。

気づかないほど、絵の中にいる。

中にいる人に、外から声をかけても、届かない。

届かないのは、絵の力だ。

こちらの力ではない。

妻の絵は、うまいのかどうか、こちらには分からない。

色が、たくさんある。

それだけは、分かる。

四十年、こちらが見てきた妻の色より、ずっと多い。

多い色を、妻は、いま、持っている。

持っている色を、絵に置いている。

置いた絵が、居間の壁に、増えていく。

増えるたびに、居間が、少しずつ、妻のものになる。

妻は、四十年、こちらの仕事に合わせて暮らした。

転勤が三度あって、三度とも、ついてきた。

文句は、一度も言わなかった。

言わなかったぶんが、いま、絵に出ているのかもしれない。

出ているなら、出させておくのがいい。

四十年、出す場所が無かったものだ。

そう思うと、こちらに言えることは、無い。

第二章 以外

絵を始めてから、妻には、絵以外がどうでもよくなった。

言葉にすれば、そうなる。

本人は、そう言わない。

そう言わないが、そうなっている。

食事は、簡単になった。

掃除は、こちらがする。

近所づきあいは、絵の仲間だけになった。

娘からの電話も、短くなった。

短くしているのは、妻のほうだ。

そして、こちらも、絵以外に入っている。

入っていることに、気づくのに、一年かかった。

気づき方は、こういうことだ。

夕食のとき、その日のことを話す。

妻は、うん、と言う。

うん、のあとに、何も無い。

以前は、何かあった。

何かあったものが、無くなった。

無くなったのではなく、絵に行った。

絵に行ったものは、戻ってこない。

戻ってこないことを、責める気は、無い。

責める気が無いことに、自分でも、少し驚いている。

驚いて、その驚きも、すぐに薄れた。

薄れるのが、この年の、ふつうの速さだ。

妻は、たぶん、こちらが絵以外に入っていることを、知らない。

知らないでいてほしい。

知ると、妻は、気を遣う。

気を遣うと、絵が、少し減る。

減らしたくない。

第三章 灰色の側

妻の絵の中で、色があるのは、絵だ。

絵以外は、灰色になった。

台所も、こちらも、灰色だ。

灰色の側に、こちらは、いる。

いることに、腹は立たない。

立たないのは、こちらも、六十を過ぎて、たいていのことがどうでもよくなっているからだと思う。

どうでもよくなった二人が、同じ家にいる。

片方には、一つ、色が残った。

片方には、残らなかった。

残らなかったほうが、こちらだ。

残らなかったこちらが、残ったほうを、横で見ている。

見ていて、思う。

色が一つ残ったのは、いいことだ。

妻に、残ってよかった。

そう思う。

思うことに、嘘は無い。

嘘は無いのに、少し、寒い。

寒いのは、灰色の側にいるからだ。

灰色の側は、色を見ることはできる。

見ることはできるが、その色の中には、入れない。

入れないまま、見ている。

入れないことを、妻は、知らない。

妻から見れば、こちらは、いつもの場所にいる。

いつもの場所が、絵の外になっただけだ。

場所は、動いていない。

色のほうが、動いた。

四十年いた場所が、いまは、絵の外になった。

外は、寒いが、静かだ。

静かなのは、悪くない。

悪くないと言えるのは、中に、色があるからだ。

中に色が無ければ、外は、ただ寒い。

ただ寒い家を、知っている。

妻が絵を始める前の、二年間が、そうだった。

二人とも灰色で、二人とも、それに気づいていなかった。

気づいたのは、妻に色が付いてからだ。

第四章 ほっとしている

正直に言うと、ほっとしている。

妻に、色が残っていることに。

こちらには、残らなかった。

残らなかったこちらが、妻の色まで消えたら、この家は、灰色だけになる。

灰色だけの家で、灰色の二人が、黙って座ることになる。

それは、嫌だ。

嫌だと思う気持ちが、まだ、こちらにある。

あることが、少し意外だった。

妻の絵は、こちらのためのものではない。

こちらは、絵の中にいない。

いないのに、絵があることで、助かっている。

助かっている、と、妻には言わない。

言うと、妻は、こちらを絵の中に入れようとするかもしれない。

入れられると、たぶん、絵が、少し灰色になる。

灰色にしたくない。

したくないので、外にいる。

外にいて、色を見ている。

見ているだけで、足りている。

足りている、と思うことにしている。

思うことにしている、と言うと、無理をしているように聞こえる。

無理は、していない。

本当に、足りている。

足りていることを、誰にも言えないだけだ。

言うと、寂しい男の話になる。

寂しい男の話ではない。

灰色の側から、色を見ている男の話だ。

その違いは、たぶん、こちらにしか、分からない。

第五章 娘の言葉

娘が、去年、来た。

妻の絵を見て、お母さん、変わったね、と言った。

そのあとで、こちらに、小さな声で、お父さんは大丈夫、と聞いた。

大丈夫だ、と答えた。

答えて、娘の顔を見た。

娘は、心配していた。

心配されているのは、灰色の側にいるからだ。

灰色は、外から見ると、心配に見える。

中から見ると、そうでもない。

そうでもないことを、娘に、うまく言えなかった。

言えなかったので、大丈夫だ、で済ませた。

済ませたことを、娘は、たぶん、信じていない。

信じていなくていい。

娘には、まだ、色がたくさんある。

たくさんあるうちは、灰色の側のことは、分からない。

分からなくていい。

分かるようになるのは、ずっと先だ。

先で分かったとき、こちらは、もういない。

いない父親が、灰色の側で、案外落ち着いていたことを、娘は知らないままだ。

知らないままでいい。

娘には、母親の色を、見ていてほしい。

父親の灰色は、見なくていい。

灰色は、見ても、何も無い。

何も無いところに、こちらは、案外、ちゃんといる。

エピローグ

今日も、妻は描いている。

こちらは、台所で茶を淹れて、居間の隅に持っていく。

持っていって、机の端に置く。

妻は、ありがとう、と言う。

言って、また描く。

ありがとう、は、届いている。

届いているものが、一つある。

一つあれば、灰色の側でも、いられる。

茶を置いて、こちらは、台所に戻る。

戻って、自分の分を淹れる。

淹れて、飲む。

飲みながら、壁の絵を見る。

色が、たくさんある。

どれも、こちらのものではない。

こちらのものではない色を、毎日、見ている。

見られるだけで、いい。

いい、と思うところまで、来た。

来たのが、この年だ。

ソウルミッション358

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