土曜のレーン
どうでもよくなったこと

朗読で聴く
第一章 どうでもよくなった
六十九になった。
どうでもよくなったことが、増えた。
娘との関係が、そうだ。
娘は四十二で、電話をかけてくるのは、用があるときだけだ。
用が無いときは、かけてこない。
以前は、それが寂しかった。
いまは、どうでもいい。
かかってくれば出る。
かかってこなくても、困らない。
困らないことに、自分で、少し怖くなる。
怖いのも、すぐに薄れる。
近所も、そうだ。
挨拶はする。
それ以上は、しない。
していた時期もある。
していたことを、やめたのではなく、しなくなった。
しなくなったことに、誰も気づいていない。
気づかれないくらい、静かにやめた。
健康の話も、そうだ。
同じ年の人は、みんな、体の話をする。
膝が、血圧が、眠れない、と。
こちらは、聞いている。
聞いて、そうですか、と言う。
自分の体のことは、言わない。
言うほど、気にしていない。
気にしていないのが、健康なのか、どうでもよくなったのかは、分からない。
たぶん、後のほうだ。
夫は、六年前に死んだ。
死んだときは、何もかもが、どうでもよくなった。
それは、悲しみだった。
いまのは、悲しみではない。
悲しみは、いつか薄れる。
いまのは、薄れたあとに残った、床のようなものだ。
床の上に、何も置いていない。
置くものが、無い。
無いことを、娘は知らない。
知らせる用も、無い。
用が無いときは、かけない。
娘と、同じことをしている。
第二章 土曜
一つだけ、どうでもよくないことがある。
土曜の朝の、プールだ。
十年、通っている。
市営の、古いプールで、朝は人が少ない。
九時に行って、四十分泳ぐ。
泳ぐこと自体は、どうでもいい。
やめても、困らないと思う。
どうでもよくないのは、隣のレーンだ。
隣のレーンに、いつも、その人がいる。
こちらより、少し年上に見える男の人だ。
名前は、知らない。
知ろうとしたことも、無い。
話したことも、無い。
会釈も、しない。
ただ、同じ時間に、隣のレーンで、同じくらいの速さで泳いでいる。
それだけだ。
それだけのことが、どうでもよくない。
その人が来ない土曜は、その日、何も手につかない。
理由は、自分でも、分からない。
分からないまま、十年たった。
十年のうち、来なかった土曜は、たぶん十回も無い。
十回も無いのに、その十回を、全部覚えている。
覚えている自分に、少し呆れる。
呆れても、覚えている。
その人は、いつも、こちらより先に来ている。
こちらが着くと、もう泳いでいる。
先に上がるのも、その人だ。
上がって、シャワーのほうへ行く。
行くのを、水の中から、見る。
見ていることを、向こうは知らないと思う。
知らないでいてほしい。
知られると、色が、変わる。
変わった色は、たぶん、抜ける。
抜けた色は、戻らない。
戻らないことを、ほかのもので、もう知っている。
第三章 小さすぎる
どうでもよくないものが、こんなに小さいことだと、誰にも言えない。
娘に言えば、笑われる。
近所に言えば、変に取られる。
言えないので、誰にも言っていない。
言っていないことで、それが、いちばん大事なものになっている。
大事なものは、言うと、少し減る気がする。
減らしたくないので、言わない。
言わないでいると、どんどん、それだけになっていく。
それだけになっていくことを、周りは、知らない。
周りから見れば、こちらは、土曜の朝に泳ぐ人だ。
それで合っている。
合っているのに、中身が、まったく違う。
それだけになっていくのを、止める気は無い。
止めると、何も残らない。
何も残らないのは、たぶん、困る。
困るかどうかも、実は、よく分からない。
分からないことが、いちばん多い年になった。
分からないままで、土曜を待つ。
待つ、ということが、まだ、こちらに残っている。
残っていることが、少し、うれしい。
うれしい、という言葉を、久しぶりに使った。
使ってみて、少し、恥ずかしかった。
恥ずかしいのも、久しぶりだった。
久しぶりのものが、二つ出てきた。
出てきたのは、土曜のせいだ。
第四章 色
プールは、灰色だ。
壁も、水も、天井も、灰色に見える。
人も、灰色だ。
こちらも、灰色だと思う。
隣のレーンの、あの人だけが、色がある。
色があると言っても、派手な人ではない。
黒い帽子と、黒い水着で、地味な泳ぎ方をする。
それでも、こちらの目には、色がある。
色があるのは、その人がどうこうではなく、こちらの中の色が、そこにだけ残っているからだと思う。
残っている場所が、そこだった。
そこだった理由は、無い。
たまたま、隣のレーンだった。
たまたまのものが、十年、色を持っている。
ほかのものは、全部、色が抜けた。
抜けたものを、惜しいとは思わない。
惜しいと思うほどの色は、初めから、無かったのかもしれない。
初めから無かったものが、抜けただけだ。
そう思うと、楽になる。
楽になったぶん、土曜が、重くなった。
重い、というのは、大事だ、ということだ。
大事なものが一つに集まると、重い。
重いものを、週に一度、持ちに行く。
楽になるのが、どうでもよくなった、ということだ。
第五章 来なかった土曜
先月、来なかった。
二週、続けて来なかった。
十年で、初めてのことだ。
三週目に、来た。
少し痩せていた。
痩せた理由は、聞かない。
聞けない。
聞く関係ではない。
関係が無いことが、この十年を、守っている。
関係ができると、どうでもよくなる気がする。
娘のように。
近所のように。
関係がある人は、みんな、色が抜けた。
関係の無い人にだけ、色が残っている。
それは、変なことだと思う。
変なことだと思いながら、変えない。
変えると、最後の色が、抜ける。
抜けたら、灰色だけになる。
灰色だけになっても、生きてはいける。
いけるのは、分かっている。
分かっているのに、それだけは、嫌だ。
嫌だ、という気持ちも、久しぶりに使った。
痩せた人が、来週も来るかどうかは、分からない。
分からないことを、一週間、持って歩く。
持って歩くものが、一つあることで、一週間が、一週間になる。
無ければ、七日は、ただの七日だ。
七日をただの七日にしないものが、名前も知らない人だというのは、変だ。
変だと分かっていて、手放さない。
手放すものが、ほかに、もう無い。
エピローグ
今週の土曜も、行く。
九時に着いて、隣のレーンを見る。
いれば、泳ぐ。
いなければ、泳いで、帰って、何も手につかない。
どちらにしても、泳ぐ。
泳ぐこと自体は、どうでもいい。
どうでもいいことの隣に、どうでもよくないことが一つある。
一つあることで、土曜が、ほかの曜日と違う色になる。
ほかの曜日は、灰色でいい。
一日だけ、色があればいい。
一日だけの色を、誰にも言わずに、持っている。
持っているものが、これだけになった。
これだけになったことを、悲しいとは、思わない。
思わないのが、本当なのか、どうでもよくなっただけなのかは、分からない。
分からないまま、土曜を待つ。
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