水をやる
どうでもよくなったこと

朗読で聴く
第一章 どうでもよくなった
七十四になった。
たいていのことが、どうでもよくなった。
服は、あるものを着る。
同じ物を、三日着ても、気にならない。
人にどう思われているかも、気にならなくなった。
気にならないと気づいたのは、去年の秋だ。
町内会の集まりで、隣の席の男が、こちらの悪口を言った。
聞こえる声で言った。
聞こえたのに、何も動かなかった。
腹が立たなかった。
立たないことに、少し驚いた。
驚いただけで、それも、すぐにどうでもよくなった。
テレビは、点けない。
新聞は、取るのをやめた。
やめても、困らなかった。
困らないことが、増えていく。
増えていくのを、止めようとは思わない。
思わないことも、たぶん、どうでもよくなったことの一つだ。
妻は、四年前に死んだ。
妻が死んで、二年ほどして、こうなった。
悲しくてこうなったのかどうかは、分からない。
悲しかったのは、確かだ。
その悲しさも、いまは、薄い。
薄いことを、悪いとは思っていない。
思わないのが、どうでもよくなった、ということだ。
医者にも、行かなくなった。
血圧の薬は、飲んでいる。
飲んでいるのは、習慣で、治りたいからではない。
治りたいかどうかを、考えたことが無い。
考えないことが、どうでもいい、の中に入っている。
入っているものが、毎年、少しずつ増える。
第二章 一つだけ
一つだけ、どうでもよくないものがある。
玄関の脇の、金柑の鉢だ。
妻が、二十年、育てていた。
毎年、冬に実がなる。
小さい実で、食べても、たいして甘くない。
妻は、それを毎年、少しだけ煮て、瓶に入れた。
瓶は、いまも台所にある。
中身は、四年前のままだ。
金柑は、妻が死んでからも、実をつける。
つけるので、水をやる。
毎朝、やる。
やらない日は、無い。
無いことが、四年、続いている。
旅行に行かないのは、この鉢のためだ。
息子が、預かると言ったが、断った。
断った理由を、息子には言わなかった。
言うと、大げさになる。
大げさに聞こえることが、こちらの中では、大げさではない。
そこが、うまく言えない。
ほかのことは、全部、どうでもいい。
この鉢だけが、どうでもよくない。
どうでもよくないのが、どうしてこの鉢なのかは、分からない。
妻のものは、ほかにもある。
着物も、茶碗も、写真もある。
どれも、そこにあって、どうでもいい。
鉢だけが、違う。
違う理由を、四年、考えている。
考えて、分からないまま、水をやる。
水をやるとき、鉢のふちに、妻の指の跡がある。
土をならすときに、つけた跡だ。
跡は、雨で消えるはずなのに、消えない。
消えないのは、こちらが、そこを避けて水をやっているからだ。
避けていることに、去年、気づいた。
気づいても、避ける。
第三章 色
どうでもよくなったものを、数えてみたことがある。
服、食べ物、人の評価、テレビ、新聞、町内会、天気、お金。
数えると、生きてきたもののほとんどが、入る。
入るのに、困らない。
困らないことが、少し怖い。
怖いことも、どうでもいい。
どうでもよくなった、というのは、力が抜けたのとは、違う気がする。
力は、ある。
歩けるし、食べられるし、鉢も持ち上がる。
抜けたのは、力ではなく、色だ。
物の色が、抜けた。
服の色も、人の言葉の色も、抜けた。
抜けた色が、どこに行ったのかは、知らない。
知らないが、一つだけ、抜けていないものがある。
金柑だ。
金柑の実が、冬になると、はっきりした色になる。
その色だけが、こちらの目に、まだ入ってくる。
入ってくるものが、一つだけある。
一つだけあることで、朝、起きられる。
起きて、水をやる。
やったら、あとは、どうでもいい。
どうでもいい一日を、色の抜けたまま、過ごす。
過ごせるのは、朝に、一つ、色を見たからだと思う。
色が一つしか無いのは、寂しいことなのかもしれない。
寂しいかどうかも、もう、分からない。
分からないことを、寂しいと呼ぶのかもしれない。
呼び方は、どうでもいい。
第四章 妻の色
妻が育てていたころ、この鉢は、どうでもよかった。
正直に言えば、邪魔だった。
玄関の脇で、冬になると実が落ちて、掃くのが面倒だった。
面倒だと、妻に言ったこともある。
妻は、笑って、そのままにした。
そのままにしたものが、いま、こちらの唯一の色になっている。
妻が生きていたころは、妻が色だった。
妻が色で、鉢は、灰色だった。
妻がいなくなって、色が、鉢に移った。
移った、と思っている。
移ったのかどうかは、確かめようが無い。
確かめようが無いことを、そう思うことにしている。
色は、一つしか持てないのかもしれない。
一つの色が消えると、別の一つに、移る。
二つは、持てない。
持てないので、鉢以外は、灰色でいい。
いい、と思っているのか、そうなっているだけなのかは、分からない。
分からないまま、灰色の中で、一つだけを見ている。
灰色の中で、一つだけ見ているのは、楽だ。
楽だと言うと、妻に悪い気がする。
悪い気がするのも、少し、薄い。
薄いことを、妻は、たぶん怒らない。
怒らない人だった。
怒らない人の鉢に、毎朝、水をやっている。
第五章 息子
息子が、月に一度、来る。
来て、こちらを見て、少し心配な顔をする。
何もしていないのが、心配なのだと思う。
何もしていないのは、本当だ。
水をやるほかは、何もしていない。
息子は、何か始めたら、と言う。
始めても、たぶん、どうでもよくなる。
どうでもよくなるものを、始める気がしない。
そう言うと、息子は黙る。
黙って、帰る。
帰る前に、鉢を見る。
見て、実が付いてるね、と言う。
そうだ、と答える。
それだけの会話が、いちばん、まともな会話になっている。
息子には、鉢のことは、分からないと思う。
分からなくていい。
分かるようになるのは、息子が、何かをどうでもよくしてからだ。
まだ、早い。
早いうちは、色が、たくさんあったほうがいい。
たくさんあるうちに、たくさん見ておけばいい。
こちらは、もう、一つでいい。
一つで足りることを、息子には、言わない。
言うと、息子は、それを心配の材料にする。
材料を、増やしたくない。
息子が持っている色を、減らしたくない。
エピローグ
今朝も、水をやった。
実が、まだ青い。
冬になれば、色が付く。
色が付くまで、あと二か月ある。
二か月を、どうでもいい日で、つなぐ。
つなげるのは、先に、色があるからだ。
色が付いたら、少し煮て、瓶に入れる。
入れて、食べない。
食べないのに、入れる。
妻がしていたことを、そのままする。
そのままするのが、こちらの、唯一のどうでもよくないことだ。
どうでもよくないことが、こんなに小さくていいのかと、思う。
思って、それもどうでもよくなる。
どうでもよくなっても、明日の朝は、水をやる。
やることだけが、どうでもよくならない。
鉢だけが、残る。
残っているものが、一つある。
一つあることで、こちらは、まだ、ここにいる。
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