灰色のまま
白黒をつけたこと

朗読で聴く
第一章 一言
七十一になった。
娘は、四十三になる。
十五年前に、電話で言われた。
もう連絡しないで。
それだけだった。
理由は、言わなかった。
こちらが聞く前に、切れた。
かけ直した。
出なかった。
次の日も、出なかった。
一週間かけて、やめた。
やめたのは、こちらが決めたのではない。
出ないので、かけられなくなっただけだ。
それから、十五年、かけていない。
娘は、あのとき、二十八だった。
結婚して二年で、遠くの州にいた。
それまでは、月に一度は、電話があった。
こちらからも、かけた。
ふつうの親子だったと、こちらは思っていた。
思っていただけかもしれない。
思っていただけかどうかを、確かめる相手が、いない。
娘の母親は、八年前に死んだ。
葬儀には、行った。
娘も来ていた。
遠くから、見た。
娘は、こちらを見なかった。
見なかったのか、見えなかったのかは、分からない。
声をかけなかった。
かけると、あの一言を、もう一度もらう気がした。
一度で、足りている。
二度目は、たぶん、持てない。
娘は、あの日、泣いていなかったと思う。
声は、平らだった。
平らな声で言われたことが、いまも、いちばん残っている。
怒っていれば、怒りを受け取れた。
平らな声は、受け取る形が無い。
形の無いものを、十五年、持っている。
第二章 思い当たること
理由を、探した。
十五年、探している。
思い当たることは、ある。
多すぎる。
娘が十のときに、離婚した。
娘は、母親についていった。
月に二度、会った。
会う日を、こちらの都合で、何度か変えた。
高校の卒業式に、行かなかった。
仕事だった。
仕事だった、というのは、あとから見れば、理由にならない。
結婚式には、行った。
行って、娘の夫の父親と、少し言い合った。
酒の席だった。
娘は、何も言わなかった。
どれが理由なのかは、分からない。
全部かもしれない。
どれでもないかもしれない。
一つに絞れないので、謝る先が、無い。
謝る先が無いまま、十五年たった。
謝れないことが、いちばん、長い。
手紙を、三通書いた。
三通とも、出していない。
書くと、理由を一つ選んで、それについて謝ることになる。
選んだ一つが違っていたら、謝ったことが、別の傷になる。
違っているかどうかを、確かめる方法が、無い。
無いので、出さない。
出さない手紙が、机の引き出しに、三通ある。
三通とも、宛名だけは書いてある。
宛名だけは、間違えようが無い。
間違えようの無いところだけを、書いてある。
第三章 つけた側
娘は、白黒をつけた。
一言で、つけた。
もう連絡しないで、というのは、そういう言葉だ。
中間が無い。
つけた側は、それで済む。
言って、切って、それで済む。
済んだあとは、動かなくていい。
こちらは、つけられた側だ。
つけられた側には、白も黒も、渡されない。
渡されたのは、一言だけだ。
一言では、白か黒かが、分からない。
分からないまま、持っている。
持っているものは、灰色だ。
娘のところには、たぶん、はっきりした黒がある。
こちらのことを、黒だと決めた黒だ。
決めた黒を、娘は、持っていなくていい。
決めた時点で、置ける。
こちらは、置けない。
何を置けばいいかが、分からないからだ。
分からないものは、置けない。
置けないものを、毎日、持って歩く。
娘が正しかったのかどうかは、こちらには決められない。
決めるのは、つけた側だ。
つけた側が決めて、つけられた側は、決められたままでいる。
決められたまま、と言っても、何に決められたのかは、知らされていない。
知らされていないものに、従っている。
従うしか、無い。
第四章 灰色
灰色は、重い。
白より、黒より、重い。
白なら、正しかったと思える。
黒なら、悪かったと思える。
灰色は、どちらも思えない。
思えないまま、持つ。
十五年、持った。
持っているうちに、灰色が、こちらの色になった。
人と話すとき、少し遅れて答える。
何を言われても、少し考えてから、返す。
考えているのは、その話ではない。
これを言ったら、どうなるか、を考えている。
もう連絡しないで、と言われた日から、そうなった。
何を言ったら、あれになるのかが、分からない。
分からないので、何を言うときも、少し止まる。
止まるのが、灰色の癖だ。
職場でも、そう言われた。
返事が遅い、と。
遅いのではない。
灰色を通ってから、答えている。
通る時間が、十五年、縮まらない。
妻はいない。
再婚しなかった。
一人なので、灰色を、誰にも見せていない。
見せる相手がいないことで、灰色は、灰色のままでいられる。
いられることが、いいのかどうかは、分からない。
近所の人に、娘さんは、と聞かれることがある。
遠くにいます、と答える。
遠くにいるのは、本当だ。
本当のことだけを言って、灰色を、見せない。
見せないのが、上手くなった。
上手くなったことが、少し、嫌だ。
第五章 娘の側
娘の側を、考える。
娘には、たぶん、理由がある。
理由があって、それを言わなかった。
言わなかったのは、言うと、こちらが何か返すからだ。
返されると、白黒がつかなくなる。
つかなくなるのが、嫌だったのだと思う。
だから、一言で切った。
切ったあとに、こちらが何を持って歩いているかを、娘は知らない。
知らなくていい。
知らせる方法も、無い。
知っているのは、こちらだけだ。
娘の白黒は、娘のものだ。
こちらの灰色は、こちらのものだ。
二つは、もう、合わない。
合わないまま、それぞれの場所にある。
合わせようとすれば、こちらから、かけることになる。
かけると、もう連絡しないで、を破ることになる。
破るのは、こちらにはできない。
言われたことを守るのが、つけられた側の、唯一の礼儀だと思っている。
礼儀だと思っているのは、こちらだけかもしれない。
娘は、いま、四十三だ。
子どもがいるかどうかも、知らない。
いるとしたら、こちらは、その子のことを、何も知らない。
何も知らないことを、灰色の中に、足していく。
足しても、灰色は、灰色のままだ。
色が変わらないことが、いちばん、こたえる。
変わるとしたら、娘からの一言でしか、変わらない。
その一言を、待っている。
待っている、と言うと、何かをしているように聞こえる。
何もしていない。
番号を変えないでいるだけだ。
エピローグ
今日も、電話は鳴らなかった。
鳴らないのが、十五年、続いている。
番号は、変えていない。
変えると、向こうがかけようとしたときに、つながらなくなる。
かけようとするかどうかは、分からない。
分からないので、変えない。
変えないことだけが、こちらにできることだ。
できることが、それしか無い。
白黒をつけた人は、先に進める。
つけられた人は、そこにいる。
そこにいて、番号を変えないでいる。
それが、灰色の中身だ。
中身は、それだけだ。
それだけを、十五年、持っている。
持っていて、誰にも見せていない。
見せる日が来るかどうかは、娘が決める。
こちらは、決められない。
決められないのが、つけられた側というものだ。
今日も、決められないまま、電話の横に座っていた。
あなたの魂のテーマに気づく場所