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白だけ

白黒をつけたこと

白だけ

朗読で聴く

第一章 帳簿

六十二になった。

四十二のとき、会社を辞めた。

辞めた日のことを、そのまま覚えている。

経理にいた。

十二年、同じ机で帳簿を見ていた。

三月の終わりに、数字が合わないところを見つけた。

小さな数字だった。

小さいので、最初は、こちらの間違いだと思った。

三日、確かめた。

確かめるほど、こちらの間違いではなくなった。

上司の名前で、動いていたお金だった。

動かし方は、帳簿を見る人にしか分からない。

帳簿を見るのは、こちらだけだった。

だから、こちらにしか分からなかった。

分かってしまった。

分かったことを、三日、持っていた。

三日目の夕方、上司の机に行った。

帳簿を開いて、その数字を指して、言った。

これは、間違っています。

上司は、少し黙って、それから、分かった、と言った。

分かった、というのは、何が分かったのか、いまも知らない。

その日のうちに、辞表を書いた。

書いて、出した。

理由は書かなかった。

書かなくても、上司には分かった。

分かる人に、分かる形で、辞めた。

同じ課に、若い女性が一人いた。

入って二年目だった。

その子には、何も言わなかった。

言えば、その子も、持つことになる。

持たせないために、黙った。

黙って辞めたので、その子は、こちらが急に辞めたとしか思っていない。

いまは、四十四になっているはずだ。

帳簿を、いまも見ているかどうかは、知らない。

第二章 その後

会社は、潰れなかった。

上司は、五年後に役員になった。

その後のことは、知らない。

知ろうとしなかった。

こちらは、小さな会社を、三つ替わった。

四十二で辞めた経理は、次の会社では雇われにくかった。

理由を聞かれて、言えなかった。

言えば、前の会社の話になる。

前の会社の話は、証拠が無い。

帳簿は、向こうにある。

こちらには、見た記憶しか無い。

記憶は、証拠にならない。

証拠にならないものを持ったまま、二十年、働いた。

給料は、辞める前より、ずっと少なかった。

少ないまま、六十二になった。

夫は、辞めた理由を知っている。

辞めた夜に、話した。

夫は、それでいい、と言った。

それでいい、と言われて、それでよかったのだと思った。

思ったことを、二十年、確かめていない。

夫も、それ以来、その話をしない。

しないのが、夫の優しさだと思っている。

優しさに、二十年、寄りかかっている。

娘には、話していない。

娘は、こちらが転々としたのを、性格だと思っている。

性格だと思われているほうが、楽だ。

楽なほうを、こちらが選んでいる。

選んでいることを、娘は知らない。

第三章 正しかった

正しかった。

いまでも、そう思っている。

間違っているものを、間違っていると言った。

言って、辞めた。

それ以上に正しいやり方は、たぶん、無かった。

無かったので、正しかった。

正しかったのに、正しかったことしか、残っていない。

正しかったことの、隣に何かがあるはずだと、あのころは思っていた。

何かが、あとから来ると思っていた。

来なかった。

二十年、来なかった。

来ないまま、正しかったことだけが、残った。

正しかったことは、食べられない。

給料にもならない。

誰も知らない。

知っているのは、上司と、夫と、こちらだけだ。

上司は、たぶん、忘れている。

夫は、話さない。

こちらだけが、毎日、持っている。

持っているものを、白だと思っている。

白は、白だ。

白であるだけで、ほかに何もしない。

白を持って、三つの会社を渡った。

どの会社でも、白のことは言わなかった。

言わないので、誰も知らない。

誰も知らないものを、正しかった、と言うのは、少し変だ。

正しさは、誰かが見て、初めて正しさになる気がする。

見た人は、二人しかいない。

一人は忘れ、一人は話さない。

残りの一人が、こちらだ。

こちらが忘れると、白は、無くなる。

無くならないように、毎年、思い出している。

第四章 あの日の三日

辞める前の三日間のことを、よく考える。

三日、数字を持っていた。

持っているあいだ、灰色だった。

言うか、言わないか。

言えば、辞めることになる。

言わなければ、帳簿を見つづけることになる。

どちらでもない道が、三日のあいだは、あった。

あった、と思う。

いまになると、あの三日が、いちばん人間らしかった気がする。

迷っていた。

迷っているあいだは、何も切れていなかった。

三日目の夕方に、切った。

切った瞬間に、灰色が無くなった。

白と、黒だけになった。

白をこちらが取り、黒を向こうに置いた。

向こうは、黒を、五年で役員にした。

こちらは、白を、二十年、持っている。

どちらが得をしたかは、はっきりしている。

はっきりしているのに、間違っていたとは、思えない。

思えないことが、白の重さになっている。

三日で決めた。

三日は、短かったのか、長かったのか。

二十年考えて、まだ分からない。

分からないことが、あの三日の中に、まだ入っている。

入ったまま、開けていない。

第五章 切り口

辞表を出した日、机の中を片づけた。

十二年ぶんの物が、段ボール一つに入った。

一つに入ることが、少し意外だった。

持って、出た。

出るとき、誰にも挨拶しなかった。

挨拶すると、理由を聞かれる。

聞かれると、言う。

言うと、切り口が広がる。

広がらないように、黙って出た。

黙って出たので、切り口は、こちらの側にだけある。

向こうには、たぶん、無い。

向こうは、経理が一人、急に辞めた、というだけだ。

次の経理は、たぶん、一週間で来た。

帳簿は、続いた。

続いたことを、こちらは知らない。

知らないが、そう思っている。

切り口は、いまも、ぎざぎざしている。

きれいに切ったつもりだった。

一言で、その日のうちに。

きれいに切ったつもりの切り口が、いちばん、ぎざぎざしている。

それを、二十年たって、知った。

段ボールは、まだ物置にある。

開けていない。

開けると、十二年が出てくる。

十二年は、正しかったことより、長い。

長いほうを、箱に入れたまま、短いほうを持っている。

エピローグ

今年の三月も、終わりが近い。

三月の終わりになると、数字のことを思い出す。

数字そのものは、もう覚えていない。

覚えているのは、合わなかった、ということだけだ。

合わなかったことを、こちらが見つけた、ということだけだ。

見つけたことを、正しさにした。

正しさにしたのは、こちらだ。

思い出して、正しかった、と思う。

正しかった、と思うことが、毎年の行事のようになっている。

行事には、何も無い。

正しかった、と思って、終わる。

夫は、今年も何も言わない。

言わない夫の横で、白を持っている。

白は、二十年たっても、白のままだ。

汚れもしない。

減りもしない。

減らないものを、持ちつづけるのは、案外、重い。

重いと、夫に言ったことは無い。

言うと、あのとき、それでいい、と言った夫を、疑うことになる。

疑わない。

疑わないまま、白を持つ。

持っているのが、正しかったことの、全部だ。

ソウルミッション358

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