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切り口

白黒をつけたこと

切り口

朗読で聴く

第一章 三十年前

六十三になった。

弟は、三つ年下だ。

三十年、会っていない。

電車で一時間のところに住んでいる。

住んでいることは、知っている。

住所も、たぶん変わっていない。

年賀状は、無い。

向こうからも、こちらからも、一度も無い。

三十年前、父の葬儀のあとだった。

家をどうするかで、言い合いになった。

弟は、売って分けようと言った。

こちらは、母がいるあいだは置いておこうと言った。

どちらも、間違ってはいなかった。

間違っていないもの同士が、言い合いになると、長くなる。

長くなって、最後に、こちらが言った。

もう二度と来るな。

そう言った。

言った言葉を、そのまま覚えている。

言った場所も、覚えている。

玄関の、上がり口だった。

弟は、靴を履いているところだった。

履いて、こちらを見て、何も言わずに出ていった。

それきりだ。

三十年、それきりだ。

妻は、あの場にいた。

いて、何も言わなかった。

あとで一度だけ、言いすぎたんじゃない、と言った。

そうかもしれない、と答えた。

そうかもしれない、で終わった。

終わらせたのは、こちらだ。

妻は、それ以来、弟の話をしない。

しないことで、こちらを守っているのだと思う。

守られていることに、三十年、甘えている。

第二章 言った側

言ったのは、こちらだ。

弟は、何も言っていない。

言われて、出ていっただけだ。

だから、切ったのは、こちらだ。

切った、と、はっきり分かる形で切った。

二度と来るな、というのは、そういう言葉だ。

中間が無い。

来るか、来ないか。

来るなと言ったので、来ない。

来ないのは、弟が言葉どおりにしただけだ。

言葉どおりにされたことを、責められない。

責めるなら、言ったほうだ。

母は、五年後に死んだ。

葬儀に、弟は来なかった。

知らせは、出した。

こちらの名前で、出した。

来なかった。

来るな、と言ったのはこちらだ。

来なかったのは、そのとおりにしただけだ。

そう考えると、理屈は合っている。

理屈が合っているのに、母の葬儀に弟がいないのは、変だった。

変だと思ったことを、誰にも言わなかった。

言うと、切ったのがこちらだという話になる。

その話は、したくなかった。

したくないまま、三十年たった。

母は、最後まで弟のことを言わなかった。

言わないのが、母の言い方だった。

言わない母の顔を、五年、見た。

五年見て、母は死んだ。

母の中で、こちらがどう見えていたかは、知らない。

知らないほうが、いい気もする。

第三章 灰色

あの日まで、弟とのあいだには、灰色があった。

仲がいいとも、悪いとも言えない、ふつうの兄弟だった。

盆と正月に会い、酒を飲み、少し言い合い、また会った。

灰色というのは、そういうことだ。

白でも黒でもないところで、続いていた。

二度と来るな、と言った瞬間に、灰色が無くなった。

黒だけになった。

黒だけになると、戻る道が無い。

灰色があれば、そこを通って戻れる。

灰色を、こちらが消した。

消したことに、あのときは気づかなかった。

気づいたのは、母の葬儀のときだ。

弟が来なかったのを見て、灰色が無いのだと分かった。

分かって、どうにもならなかった。

戻る道を、自分で消したあとだった。

それから、正しかったことにした。

正しかったから、戻らない。

戻らないから、正しかった。

どちらが先かは、もう分からない。

分からないまま、正しかったことにして、二十五年たった。

灰色を消すのは、一言で済む。

灰色を戻すのは、一言では済まない。

済まないことを、知っていて、やらない。

やらないことも、たぶん、一言で済まないことの一部だ。

第四章 切り口

言った言葉は、はっきりしている。

はっきりしているのに、切り口は、ぎざぎざしている。

きれいに切れたわけではない。

言った瞬間に切れたのではなく、言ったあとで、少しずつ切れていった。

弟が靴を履いていた時間。

出ていく音。

戸が閉まる音。

そのあとの、母の顔。

どれも、切り口の一部だ。

三十年たっても、そこは平らにならない。

触ると、引っかかる。

引っかかるので、触らない。

触らないので、そのままだ。

妻と、切り口の話をしたことは無い。

妻は、たぶん、こちらの切り口を見ている。

見ていて、触らない。

触ると、こちらが痛がるのを知っている。

知っている人が横にいることで、切り口は、切り口のまま置いておける。

置いておけるのが、いいことなのかは、分からない。

そのままの切り口を、三十年、持っている。

弟のほうにも、たぶん、切り口がある。

向こうの切り口が、どんな形かは、知らない。

向こうは、言われた側だ。

言われた側の切り口は、言った側とは、違う形をしていると思う。

違う形の切り口を、二人で、別々に持っている。

合わせれば、たぶん、一つの形になる。

合わせる機会は、無い。

無いようにしたのは、こちらだ。

第五章 白

正しかった、と、いまでも思っている。

母がいるあいだ、家を置いておいたのは、正しかった。

母は、その家で死んだ。

それは、良かった。

正しかったことを、白だとする。

白は、持って帰れた。

持って帰った白を、三十年、持っている。

白は、何もしてくれない。

弟の顔の代わりにはならない。

盆に一緒に飲む酒の代わりにもならない。

白は、白であるだけだ。

白であるだけのものを、正しかったからと言って、持っている。

黒は、弟のところにある。

こちらが渡した。

渡したつもりは無かったが、二度と来るな、というのは、黒を渡す言葉だ。

渡された黒を、弟がどうしているかは、知らない。

捨てたかもしれない。

持っているかもしれない。

知らないことを、知らないままにしているのも、こちらだ。

知ろうとすれば、知れる。

電車で一時間だ。

一時間の距離を、三十年、詰めていない。

詰めないのが、正しかったことの中身になっている。

中身が、それしか無い。

正しかったことの中身が、会わないこと、というのは、変だ。

変だと分かっていて、変えない。

変えると、正しくなかったことになる。

正しくなかったことにするには、三十年は、長すぎる。

長すぎるので、正しかったままにしておく。

白を持ったまま、正月を迎える。

エピローグ

今年も、正月が来る。

年賀状は、来ない。

出さない。

出さないのは、決めているからではない。

決めたのは三十年前で、その後は、決め直していないだけだ。

決め直さないことを、決めていることにしている。

玄関の上がり口は、いまも同じ場所にある。

毎日、そこで靴を履く。

履くとき、弟が履いていたのを、思い出すことがある。

思い出して、履いて、出る。

出て、戻ってくる。

戻ってこられるのは、こちらが、来るなと言われていないからだ。

言われていない者だけが、戻ってくる。

言った者は、戻ってくる場所を、持っている。

言われた者は、持っていない。

そういうふうに、こちらが分けた。

分けたところが、切り口だ。

切り口は、三十年、平らにならない。

平らにしないまま、今日も、そこで靴を履いた。

ソウルミッション358

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