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七番のバス

背中だけを知っていること

七番のバス

朗読で聴く

第一章 三十一年

六十八になった。

三十一年、町の路線バスを運転した。

七番だった。

駅を出て、病院を回って、川沿いを戻る。

一周、五十分。

それを、一日に八回。

四年前に、やめた。

乗客は、こちらの後ろに座る。

運転席の背もたれが、こちらと乗客のあいだにある。

こちらが見るのは、ミラーだ。

ミラーには、顔ではなく、動きが映る。

立ち上がる動き。

降りる動き。

迷って、また座る動き。

顔は、見ない。

見る必要が、無い。

必要の無いものは、三十一年やっていると、見えなくなる。

見えなくなったことに、気づかない。

三十一年、後ろに、誰かがいた。

誰かがいて、こちらは、その誰かの顔を知らなかった。

知らないまま、毎日、運んだ。

運転席の背もたれは、高い。

乗客から見えるのは、肩から上だけだ。

肩から上と、ミラーの中の目。

目は、ミラーを見ている。

乗客を見ているのではない。

乗客からは、見られているように見えたかもしれない。

見ていなかった。

道を見ていた。

第二章 前を向いたまま

おはよう、と言われる。

おはよう、と返す。

返す先は、前だ。

前を向いたまま、言う。

振り向くと、事故になる。

振り向かないのが、仕事だった。

仕事が、体になった。

いまも、誰かと話すとき、前を向いたまま返事をする。

妻に、こっち向いて、と言われる。

言われて、向く。

向くのに、少し時間がかかる。

かかる時間が、三十一年ぶんだと思う。

妻は、それを笑う。

笑ってくれるので、助かっている。

助かっている、と、妻には言っていない。

言うときも、たぶん、前を向いて言う。

運転席では、声だけが後ろに行った。

声は、背中を通って、後ろに届いた。

届いた声を、後ろの誰かが受け取った。

受け取ったかどうかは、こちらには分からない。

分からないまま、毎朝、言った。

子どもが、後ろから、運転手さん、と呼ぶことがあった。

はい、と答える。

前を向いたまま、答える。

子どもは、背中に向かって、話す。

今日は学校で何があった、とか。

背中で聞いて、そう、とか、よかった、とか言う。

顔は、一度も見なかった。

その子が、いまいくつになっているのかも、知らない。

向こうは、たぶん、こちらの背中を覚えている。

第三章 店で

やめて、四年たつ。

去年、店で、知らない女の人に声をかけられた。

七番のバスの人でしょう、と言われた。

そうです、と答えた。

十五年、毎朝乗ってました、と言った。

こちらは、その顔を、初めて見た。

初めてだった。

向こうは、こちらの背中を、十五年見ていた。

背中で、こちらを覚えていた。

店で会って、顔で分かった、と言った。

顔で分かるほど、背中を見ていたのだと思う。

それから、こう言った。

右に曲がるとき、少しだけ、頭を傾けるでしょう。

知らなかった。

三十一年、そんなことは、知らなかった。

誰にも言われたことが無い。

妻も、知らない。

妻は、後ろから運転するこちらを、見たことが無い。

後ろから見ていたのは、乗客だけだ。

乗客だけが、知っていた。

こちらの知らないこちらを、後ろの席が、知っていた。

そうですか、と答えた。

それしか、言えなかった。

名前は、聞かなかった。

その人は、もう一つ言った。

朝、あなたの背中を見ると、今日も同じだと思えた、と。

同じ、というのが、褒め言葉なのかどうかは、分からない。

たぶん、褒めてはいない。

ただ、そうだった、と言っただけだ。

十五年、同じ背中が、同じ時間に、同じ席にあった。

それを、あの人は、毎朝、使っていた。

こちらは、使われていることを、知らなかった。

第四章 見せていた

三十一年、町に、背中を見せていた。

見せている、という意識は、無かった。

運転していただけだ。

運転している背中を、町の人が、毎日見ていた。

こちらは、町の顔を、一つも知らない。

ミラーに映る、動きは知っている。

降りる動き。

迷う動き。

顔の無い動きを、三十一年、見ていた。

向こうは、顔の無い背中を、見ていた。

どちらも、顔を知らないまま、三十一年、同じ箱の中にいた。

違うのは、向こうがこちらを覚えていたことだ。

こちらは、誰も、覚えていない。

覚えていないのは、見ていなかったからだ。

見ていた側だけが、覚えている。

頭を傾けること。

たぶん、ほかにも、ある。

肩の動きとか、信号で止まるときの首とか。

こちらは、一つも知らない。

知っているのは、後ろにいた人たちだ。

こちらの背中は、こちらの物ではなかった。

見ていた人たちの物だった。

三十一年、人の物になっているものを、こちらが動かしていた。

動かしている、という自覚も、無かった。

自覚が無いものが、いちばん、よく見られている。

よく見られているものを、本人だけが、知らない。

それが、背中というものだと思う。

第五章 乗る側

いまは、バスに乗る。

七番に乗る。

後ろの席から、運転手の背中を見る。

若い運転手だ。

名前は、知らない。

背中が何をしているかは、分かる。

右に曲がる前に、肩が少し上がる。

上がってから、ハンドルを切る。

それを、運転手は、知らないだろう。

こちらも、知らなかった。

言わない。

言うと、運転手は、自分の肩を気にするようになる。

気にすると、上がらなくなるかもしれない。

上がらなくなると、後ろの誰かが、困るかもしれない。

困る人がいるかどうかは、知らない。

知らないので、言わない。

知らないことを、後ろから見られていた。

いま、こちらが、後ろから見ている。

三十一年ぶん、こちらが見せていたものを、いま初めて、別の背中で見ている。

見ながら、自分の背中を思う。

思っても、見えない。

背中は、自分では、見えない。

見えないものを、三十一年、見せていた。

見せていたと、去年、知った。

知ったのは、店で、知らない顔に言われたからだ。

言われなければ、知らないまま、死んだと思う。

死んでも、困らなかったと思う。

困らないことを、知ってしまった。

知ってしまうと、戻れない。

戻れないまま、後ろの席に座っている。

エピローグ

店で会った人の名前は、聞かなかった。

聞けば、顔と名前がついて、こちらの知っている人になる。

ならないほうがいい、と思った。

あの人が知っているのは、こちらの背中だ。

背中には、名前が要らない。

こちらは、あの人の顔を、知ってしまった。

知ってしまったので、こちらだけが、少し持ちすぎている。

持ちすぎたものを、どこに置けばいいかが、分からない。

分からないまま、七番に乗る。

後ろの席に座る。

運転手の背中を見る。

肩が、上がる。

曲がる。

こちらの肩も、あのころ、上がっていたのだと思う。

思うだけで、確かめようが無い。

確かめられる人は、町のどこかにいる。

十五年、毎朝見ていた人だ。

その人に、聞かない。

聞くと、こちらの背中が、こちらの物になってしまう。

それは、違う気がする。

背中は、見ていた人の物のままでいい。

こちらは、乗る側になった。

乗る側で、誰かの背中を、覚えはじめている。

ソウルミッション358

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