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半歩後ろ

背中だけを知っていること

半歩後ろ

朗読で聴く

第一章 通学路

五十九になった。

兄は、三年前に死んだ。

六十一だった。

五つ年上だった。

小学校の通学路は、家から二十分だった。

兄が前を歩き、こちらが後ろを歩いた。

並んで歩いたことは、無い。

道が狭かったからではない。

並ぶ、という考えが、無かった。

兄が前で、こちらが後ろ。

家の決まりというより、体の決まりだった。

兄の背中を見て、歩いた。

ランドセルの、右の肩の紐が、少しねじれていた。

六年のあいだ、ねじれたままだった。

言わなかった。

言うと、兄が止まって、こちらを向く。

向かれると、何を言えばいいか、分からなくなる。

だから、言わなかった。

ねじれた紐を、六年、見て歩いた。

いまでも、あの紐のねじれ方を、描ける。

兄の顔は、描けない。

兄は、道の左側を歩いた。

車が来る側だった。

来る側を兄が歩いて、こちらは内側を歩いた。

そう決めたのかどうかは、知らない。

聞いたことが無い。

背中から、そう読んだだけだ。

読んだものを、四十年、本当だと思っている。

第二章 山道

家の裏に、山があった。

夏は、毎日登った。

兄が先で、こちらが後ろ。

兄は、速かった。

こちらが遅れると、兄は止まった。

振り向かずに、止まった。

背中のまま、待った。

追いつくと、また歩き出した。

振り向いたことは、一度も無い。

一度も無い、と、いまは思っている。

確かめようが、無い。

遅れたことを、兄は責めなかった。

責める代わりに、背中で待った。

待たれている、という感じが、背中から来た。

背中は何も言わないのに、待っているのが分かった。

分かったつもりでいた。

兄が中学に上がると、一緒に登らなくなった。

それからは、一人で登った。

一人で登ると、前に、誰もいない。

誰もいないのに、こちらは、後ろを歩く速さで歩いた。

速さが、体に残っていた。

前に誰もいない道を、誰かの後ろの速さで登った。

そのことに、当時は、気づいていなかった。

頂上で、兄は座った。

座ると、背中がこちらを向いた。

座っても、背中だった。

町を見ているのだと思った。

何を見ていたのかは、聞かなかった。

聞かないのが、兄との決まりだった。

決まりを作ったのは、たぶん、こちらだ。

第三章 半歩

大人になって、誰かと歩くとき、並べない。

半歩、下がる。

下がっていることに、気づいていなかった。

妻に言われて、気づいた。

なんで、いつも後ろを歩くの。

結婚して、五年目だった。

答えられなかった。

答えを探して、兄の背中に行き着いた。

行き着いたことを、妻には言っていない。

言うと、兄の話になる。

兄の話を、妻にする言葉が、無い。

妻は、いまも、半歩前を歩いている。

前を歩かせている、というのが正しい。

妻が前に出るのではなく、こちらが下がる。

下がると、妻の背中が見える。

背中が見えると、落ち着く。

落ち着く理由が兄だとは、妻は知らない。

知らないまま、三十年、前を歩いてくれている。

妻は、こちらより歩くのが速い。

速いから前にいるのだと、妻は思っている。

速さの話ではない。

でも、速さの話にしておくほうが、楽だ。

楽なほうを、こちらが選んでいる。

職場でも、同じだった。

同僚と廊下を歩くと、半歩遅れる。

上司と歩くと、一歩遅れる。

遅れているのではない。

下がっている。

下がる場所を、体が探している。

探して、見つけて、そこに入る。

入ると、楽になる。

楽になる理由を、四十年、考えなかった。

一人で歩くときも、同じだ。

駅の階段で、知らない誰かの後ろにつく。

人混みで、誰かの背中を選んで、その後ろを歩く。

選ぶ基準は、歩く速さだ。

兄の速さに近い背中を、体が選ぶ。

選んだことを、頭は、あとから知る。

第四章 三年前

兄は、三年前に死んだ。

病院で、最後の三日は、こちらが横にいた。

横だった。

後ろではなかった。

横から見る兄の顔は、知らない顔ではなかった。

でも、いつもの兄でもなかった。

いつもの兄は、背中だった。

兄が死んで、葬儀の列で、こちらは先頭を歩いた。

喪主だった。

前に、誰もいなかった。

生まれて初めて、前に誰もいないところを、大勢の前で歩いた。

速さが、分からなかった。

速いのか、遅いのか。

後ろの人に合わせるのか。

合わせ方を、知らなかった。

半歩後ろで歩く速さしか、体に無かった。

前に誰もいないと、体は、速さを失う。

失ったことを、その日、初めて知った。

その速さで、先頭を歩いた。

たぶん、遅かったと思う。

誰も、何も言わなかった。

言わないのが、葬儀というものだ。

通夜の夜、ランドセルの紐のことを思い出した。

右の肩の、ねじれた紐。

六年、言わなかった。

それから五十年、言う機会が無かった。

機会が無かった、というのは嘘だ。

機会は、いくらでもあった。

言うと、兄がこちらを向く。

向かれるのが、最後まで、慣れなかった。

慣れないまま、兄は、向かなくなった。

第五章 空いている側

前に誰もいなくなって、三年たつ。

それでも、半歩下がる。

妻の後ろを歩く。

下がる相手がいないときは、道の、少し右側を歩く。

兄が、いつも左を歩いたからだ。

左が、空いている。

空けたのは、こちらだ。

空けたのは、兄がいなくなってからではない。

四十年、空けていた。

空けたところに、兄がいたことは、一度も無い。

兄は、前にいた。

左は、初めから、空いていた。

それでも、空けている。

背中の後ろが、こちらの場所だった。

場所は、前の人が決める。

前の人がいなくなると、場所だけが残る。

残った場所に、いまも立っている。

前に誰もいないのに、後ろを歩いている。

後ろを歩いているのに、前に、誰もいない。

どちらも、本当だ。

どちらも本当のまま、三年たった。

息子が、二十七になる。

息子と歩くと、息子が半歩後ろを歩く。

気づいたのは、去年だ。

誰も教えていない。

教えていないのに、そうなっている。

前を歩くこちらの背中を、息子は、何と読んでいるのだろう。

読んでいるものは、たぶん、こちらのものではない。

兄の背中を、こちらが読んだのと、同じだ。

エピローグ

今日も、妻の半歩後ろを歩いて、店に行った。

妻は、もう何も言わない。

言わなくなったのは、三年前からだ。

兄が死んでから、妻は言わなくなった。

妻は、たぶん、分かっている。

分かっていて、前を歩いてくれている。

前を歩く人がいる。

それで、こちらの体は、どこを歩けばいいかが分かる。

分からない体を、四十年、前の人に預けてきた。

預け先が、兄から、妻に移った。

移ったことを、妻は知っているのだと思う。

知っていて、背中を貸している。

借りているものが何かを、こちらは、まだ言葉にできていない。

兄にも、言えなかった。

言えないまま、兄は前を歩いて、いなくなった。

いなくなった前を、いまは、妻が歩いている。

妻の背中は、兄の背中と、似ていない。

似ていないのに、同じ場所に、こちらを置く。

置かれる場所が、同じなのだ。

背中ではなく、その後ろが。

言葉にできないまま、明日も、半歩下がる。

ソウルミッション358

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