知らない顔
背中だけを知っていること

朗読で聴く
第一章 土間
六十二になった。
父は、十八年前に死んだ。
七十四だった。
畳屋だった。
仕事場は、家の土間の続きだった。
学校から帰ると、まず、父の背中があった。
正座して、畳の芯に針を通している背中だ。
針は太くて長く、糸を引く音が、土間に響いた。
ただいま、と言う。
父は、おう、と言う。
振り向かない。
振り向かないのが、ふつうだった。
手を止めると、針が畳の芯の中で曲がる、と母が言っていた。
だから父は、手を止めない。
止めないので、振り向かない。
こちらは、それで納得していた。
納得していた、というより、そういうものだった。
そういうものだと思って、育った。
土間は、い草の匂いがした。
匂いは、父の背中のほうから来た。
母は、土間の脇の台所にいて、父を横から見ていた。
横から見ると、顔が半分見える。
母は、その半分で、父と暮らしていたのだと思う。
こちらは、後ろからだった。
後ろからは、顔は見えない。
見えないぶんを、こちらは、背中で埋めた。
第二章 背中に
話は、背中にした。
学校のこと。
友だちのこと。
行きたい学校のこと。
父は、おう、とか、そうか、とか、背中で答えた。
背中の答えは、短い。
短いので、こちらが足した。
父が何を思っているかを、こちらが背中から読んで、足していた。
うなずいたように見える、とか。
針が少し止まった、とか。
針が止まったのは、賛成なのか、反対なのか。
決めたのは、こちらだ。
父は、何も言っていない。
十八のとき、家を出て働きたいと言った。
背中に言った。
針が、止まった。
長かった。
それから、また動いた。
行け、とは言わなかった。
行くな、とも言わなかった。
針が動いたので、行った。
行ったあとで、あれは何だったのかを、何度も考えた。
答えは、こちらが出すしかなかった。
父に聞けばよかった。
聞かなかった。
背中に聞くという習慣が、この家には無かった。
結婚するときも、背中に言った。
相手を連れて、土間に立った。
父は針を止めて、立って、こちらを向いた。
向いて、そうか、と言った。
それだけで、また座って、針を持った。
向いていたのは、たぶん十秒ほどだった。
十秒の顔を、覚えていない。
覚えているのは、そのあとの背中だ。
針の音が、いつもより、少しゆっくりだった。
ゆっくりだったことを、喜んでいる、と読んだ。
読んだのは、こちらだ。
第三章 顔
父の顔を見て話した記憶が、無い。
無い、というのは大げさかもしれない。
食事のときは、向かいにいた。
でも、父は食べているときは黙っていて、話すのは土間だった。
土間では、背中だった。
だから、話している父は、いつも背中だった。
話している顔を、知らない。
怒った顔も、笑った顔も、知らない。
土間の背中の、針の速さで知った。
速くなると怒っていて、遅くなると考えている。
そう決めていた。
合っていたかどうかは、分からない。
確かめる方法が、無かった。
確かめようと思ったことも、無かった。
背中は、いつもそこにあった。
あるものを、確かめようとは思わない。
母に、一度だけ聞いたことがある。
お父さんは、どんな顔で仕事をしているのか。
母は、少し考えて、ふつうの顔、と言った。
ふつうの顔を、こちらは、知らなかった。
知らないことを、そのときは、変だと思わなかった。
第四章 遺影
父が死んで、遺影を選ぶことになった。
正面を向いた写真が、一枚しか無かった。
町内会の集まりで、誰かが撮ったものだった。
それを引き伸ばした。
葬儀のあいだ、その顔を見ていた。
知らない顔だった。
目が、こちらを向いている。
父の目がこちらを向いているのを、そのとき初めて、長く見た。
長く見て、知らない人だと思った。
父ではない、のではない。
父の、知らない側だった。
四十年、こちらは背中を読んでいた。
読んでいたものは、父の顔には無かった。
顔は、何も言っていなかった。
ただ、こちらを向いていた。
背中は、何も言わない。
言わないのに、四十年、何かを聞いた気でいた。
言わないものを、四十年、こちらが読んでいた。
読んだものは、父のものではなく、こちらのものだった。
そのことが、遺影の前で分かった。
分かっても、遅かった。
遺影は、いま、仏壇の上にある。
毎朝、線香をあげる。
顔を見る。
いまでも、少し、知らない。
母は、遺影を見て、これでいい、と言った。
母には、知っている顔だったのだと思う。
横から半分、五十年見ていた顔だ。
こちらには、初めての顔だった。
同じ写真を、二人で、別の顔として見ていた。
母は、三年前に死んだ。
母の遺影は、正面の写真がいくらでもあった。
母は、こちらを向いて、話す人だった。
第五章 台所
娘が、月に一度、来る。
三十四になる。
台所で、こちらは流しに向かっている。
娘は、後ろのテーブルにいる。
話は、そのままする。
娘の話を、背中で聞いている。
あるとき、気づいた。
こちらが、振り向いていない。
手を止めると何かが曲がる、と思っているわけではない。
止めても、何も曲がらない。
それでも、振り向かない。
振り向くと、話が改まる気がする。
改まると、娘が言いにくくなる気がする。
父も、そうだったのかもしれない。
振り向かなかったのは、針のためではなく、こちらのためだったのかもしれない。
それを、父に確かめることは、もうできない。
確かめられないものを、こちらは、いま、自分の背中でやっている。
娘は、こちらの背中を読んでいるだろうか。
読んでいるとしたら、読んでいるものは、娘のものだ。
こちらのものではない。
それでいい、と思う。
父も、そう思っていたのかどうかは、知らない。
知らないまま、同じことをしている。
去年、娘が言った。
お母さん、話すとき、いつも背中だね。
責める言い方ではなかった。
ただ、気づいたことを言っただけだった。
そうね、と答えた。
答えながら、流しの水を止めなかった。
止めると、振り向くことになる。
振り向くと、その話を、顔でしなければならない。
顔でする話にするには、まだ早い気がした。
早いと決めたのは、こちらだ。
娘は、何も決めていない。
娘には、話す顔を、いくつか残してある。
電話のときは向き合っている。
外で会うときも、向き合っている。
台所だけが、背中だ。
台所だけでいい、と思っている。
父には、土間しか無かった。
土間しか無かったので、背中しか残らなかった。
エピローグ
今日も、娘が来て、帰った。
流しの前で、話した。
振り向かなかった。
振り向かなかったことを、あとで、少し考えた。
一度だけ、振り向いてみようかと思った。
思って、やめた。
振り向くと、父と違うことをすることになる。
違うことをする理由が、まだ、無い。
あるとすれば、娘に、知らない顔を残さないことだ。
それが理由になるかどうかを、まだ決めていない。
決めていないまま、明日も、流しに立つ。
背中は、こちらからは見えない。
見えないものを、娘に見せている。
父も、見えないものを、こちらに見せていた。
見せていたものが何だったのかを、父は知らなかったと思う。
こちらも、知らない。
知らないものを、見せている。
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