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階段の上

見なかったことにしたこと

階段の上

朗読で聴く

第一章 半年

七十一になった。

三十四年前に、離婚した。

三十七だった。

娘が一人いて、十二だった。

離婚のあと、半年ほど、毎晩台所で飲んだ。

娘が寝てから、台所の電気をつけて、一人で飲んだ。

量は、覚えていない。

覚えていないことを、覚えていないと言えるようになったのは、ずっとあとだ。

覚えていないくらい、飲んだ。

毎晩、二時間か、三時間だった。

電気を消して寝るのは、一時か二時だった。

朝は、七時に起きて、娘の弁当を作った。

弁当は、毎日作った。

卵焼きと、前の晩の残りと、ご飯。

毎日同じだったが、娘は何も言わなかった。

言わなかったので、それでいいと思っていた。

作れていたので、大丈夫だと思っていた。

半年で、やめた。

やめた理由は、覚えていない。

やめたことだけを覚えている。

やめた朝、娘が、いつもより早く台所に来た。

来て、何も言わずに、弁当箱を洗った。

洗ったのは、あの朝が初めてだった。

初めてだったことの意味を、去年まで、考えなかった。

やめられたので、大丈夫だったのだと、思っていた。

あの半年のことは、自分の中で、片づいた話になっていた。

片づいた話は、思い出さない。

思い出さないので、無かったことに近くなっていた。

近くなっていただけで、無かったわけではない。

無かったわけではないことを、去年、娘に教えられた。

第二章 言わなかった

娘には、言わなかった。

娘は寝ていたので、知らないと思っていた。

知らないなら、言う必要がない。

言えば、心配させる。

心配させないために、言わなかった。

娘も、何も言わなかった。

あのころのことを、一度も、話に出さなかった。

出さないので、知らないのだと思っていた。

三十四年、思っていた。

娘は、いま四十六になる。

結婚して、子どもが二人いて、車で一時間のところにいる。

上の子が、十二になった。

あのころの娘と、同じ年だ。

同じ年になった子を連れて、娘が来る。

月に一度、来る。

来ると、台所で一緒に茶を飲む。

あの台所だ。

あのころと同じ、台所だ。

同じ台所で、三十四年、あのころの話をしなかった。

しなかったのは、こちらが避けたからだと思っていた。

避けていたのは、娘のほうだった。

娘が避けてくれていたので、こちらは避けなくて済んでいた。

済んでいることに、気づいていなかった。

第三章 去年

去年の秋に、娘が言った。

台所で、茶を飲んでいるときだった。

何の前置きも無かった。

あのころ、毎晩、階段の上に座ってた、と言った。

どのころ、と聞いた。

聞いたときには、もう分かっていた。

台所の電気が消えるまで、階段のいちばん上の段に座ってた、と言った。

消えたら、部屋に戻って寝た、と言った。

毎晩、と言った。

半年、と言った。

こちらは、何も言えなかった。

娘は、それ以上は言わなかった。

言って、茶を飲んで、孫の話に戻った。

戻ったので、こちらも戻った。

戻れたのは、娘が戻してくれたからだ。

娘は、それを言うために来たのではなかった。

来て、茶を飲んでいるうちに、出てきたのだと思う。

三十四年ぶんが、湯呑み一杯のあいだに出た。

出したあと、娘は、少しだけ楽そうだった。

楽そうに見えたのは、こちらの都合かもしれない。

第四章 見ていた

娘は、見ていた。

毎晩、台所の電気を、階段の上から見ていた。

台所は見えない。

階段の上からは、台所の明かりが、廊下に落ちるのが見えるだけだ。

明かりが消えるのを、待っていた。

消えたら、寝た。

消えるまで、寝なかった。

消えたあと、こちらが階段を上がる。

娘はその前に部屋に戻っている。

こちらが上がる足音を、たぶん、布団の中で聞いていた。

聞いて、それから寝た。

十二の子が、半年、毎晩それをやった。

こちらは、知らなかった。

知らないで、毎晩、飲んでいた。

飲みながら、娘は寝ていると思っていた。

寝ていなかった。

寝ないで、こちらが寝るのを待っていた。

待っていて、朝は、何も言わなかった。

弁当を受け取って、行ってきます、と言った。

三十四年、何も言わなかった。

言わないことを、十二で決めて、四十六まで続けた。

こちらが半年で終えたものを、娘は三十四年続けた。

続けさせたのは、こちらだ。

見なかったことにしていた。

こちらのために、見なかったことにしていた。

十二の子が、そう決めた。

決めた理由は、聞いていない。

聞けば、あのころの娘に、もう一度そこに座らせることになる。

座らせたくない。

だから、聞かない。

聞かないことは、また、見なかったことにすることに近い。

近いと分かっていて、聞かない。

第五章 こちらの側

こちらも、見なかったことにしていた。

娘が見ているかもしれない、ということを、見なかったことにしていた。

寝ていると、決めていた。

決めれば、見られていない。

見られていなければ、飲める。

そういう順番で、半年飲んだ。

娘が寝ていないことを、確かめなかった。

確かめれば、飲めなくなる。

だから、確かめなかった。

確かめないことを、見なかったことにするのと、同じにした。

三十四年、それで通した。

通ったと思っていた。

通っていなかった。

娘が、通してくれていた。

こちらが見なかったことにしたものを、娘が、代わりに見ていた。

見て、見なかったことにしてくれていた。

二人で、同じものを、別の側から、見なかったことにしていた。

別の側からやると、同じことでも、重さが違う。

こちらは飲みながらやった。

娘は、座りながらやった。

こちらの側は、楽だった。

娘の側は、階段の上だった。

階段の上は、冬は寒い。

半年のうち、三か月は冬だった。

寒いところに、毎晩、二時間か三時間、座っていた。

毛布を持っていたかどうかは、知らない。

知らないことが、多すぎる。

多すぎるものを、去年まで、一つも知らなかった。

エピローグ

階段は、いまもある。

いちばん上の段は、廊下の電気が届かなくて、少し暗い。

そこに、十二の子が座っていた。

座っていた段を、こちらは毎日、上り下りしている。

三十四年、毎日、踏んでいた。

踏んでいたことを、去年、知った。

知ってから、その段を踏むときに、少しだけ足が遅くなる。

遅くなるだけで、止まらない。

止まると、娘に、何かを言うことになる。

言わないことを、こちらも選んでいる。

選んでいることを、今度は、見なかったことにしない。

何を言えばいいのかは、分からない。

ごめん、では、足りない。

ありがとう、は、違う。

違うので、言わない。

言わないで、段を踏む。

娘は、来月も来る。

台所で、茶を飲む。

あの話は、たぶん、もう出ない。

出なくていい。

出ないことと、無かったことにすることは、もう、別のことになった。

一度出たので、もう、見なかったことにはできない。

できないまま、二人で、茶を飲む。

娘が帰ったあと、階段を上がる。

いちばん上の段で、一度だけ、足を止めてみたことがある。

座らなかった。

座ると、娘の場所に座ることになる。

そこは、こちらの場所ではない。

ソウルミッション358

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