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父の湯呑み

見なかったことにしたこと

父の湯呑み

朗読で聴く

第一章 台所

五十八になった。

父は、二十三年前に死んだ。

六十一だった。

肝臓だった。

父は、毎晩、台所で飲んだ。

食卓ではなく、流しの横の小さな台のところで、立って飲んだ。

湯呑みで飲んだ。

酒を湯呑みで飲むのは、父だけだった。

白い、少し厚い、何の模様も無い湯呑みだ。

ふちが一箇所、欠けている。

欠けたのがいつかは、知らない。

こちらが覚えているかぎり、ずっと欠けていた。

父は、欠けていないほうに口をつけた。

そこだけ、少し色が変わっていた。

こちらが物心ついたときには、もうそこにあった。

父が帰ってくる。

着替える。

台所に行く。

湯呑みに注ぐ。

立ったまま飲む。

注ぐ。

飲む。

それを、毎晩、二時間ほどやった。

テレビは見なかった。

新聞も読まなかった。

ただ、流しの横で、飲んだ。

こちらは、それを、十四のころから見ていた。

見ていた、というより、そこに父がいる家で育った。

父は、飲んでも、声を荒らげなかった。

手を上げることもなかった。

ただ、静かになった。

静かになって、二時間たつと、寝た。

朝は、いつも通りだった。

いつも通りだったので、何も無いことにしやすかった。

荒れる父なら、たぶん、誰かが言った。

荒れなかったので、誰も言わなかった。

第二章 母

母も、見ていた。

母は、父より先に寝た。

寝る前に、台所を通る。

通るときに、父の横を通る。

何も言わなかった。

おやすみ、とだけ言った。

父は、ああ、とだけ言った。

それが毎晩だった。

こちらは、二階からその声を聞いていた。

おやすみ、と、ああ、を、毎晩聞いた。

二つの声のあいだに、湯呑みがあった。

湯呑みのことは、二人とも言わなかった。

言わないことで、湯呑みは、そこに無いことになっていた。

無いことになっている湯呑みで、父は毎晩飲んだ。

無いことになっているものを、母は毎晩、横目で通った。

こちらも、無いことになっているものを、二階から聞いていた。

三人で、無いことにしていた。

無いことにするには、三人要った。

一人でも言えば、無いことにはできない。

誰も言わなかった。

言わないことを、三人で守っていた。

守っている、という意識は無かった。

無いまま、二十年守った。

三人の中で、いちばん熱心に無いことにしていたのは、たぶん、こちらだ。

子どもは、親が無いことにしているものを、親より上手に無いことにする。

友だちを家に呼ばなかった。

呼ぶと、台所を通ることになる。

台所を通ると、父が見える。

見えるものを、友だちが見る。

友だちが見ると、無いことにできなくなる。

だから、呼ばなかった。

呼ばなかったことを、友だちは知らない。

第三章 六十一

父が倒れたのは、六十歳の冬だった。

病院で、肝臓だと言われた。

医者は、お酒は、と聞いた。

父は、少し、と言った。

母は、何も言わなかった。

こちらも、何も言わなかった。

少し、というのが、二十年の毎晩の二時間だとは、三人とも言わなかった。

医者は、たぶん分かっていた。

分かっていて、それ以上は聞かなかった。

医者も、見なかったことにした。

その場に、四人目がいた。

四人目も同じことをするのを見て、こちらは少し安心した。

安心したことを、あとで、恥じた。

一年後に、父は死んだ。

葬儀の帰りに、台所に入った。

流しの横に、湯呑みがあった。

洗って、伏せてあった。

母が洗ったのだと思う。

最後に飲んだ日の、次の朝に洗ったのだと思う。

伏せてある湯呑みを見て、こちらは、初めてそれを、見た。

二十年、そこにあったものを、初めて見た。

見たと同時に、二十年見なかったことにしていたことも、見えた。

二つが一度に来た。

来たものを、その場で受け止めることはできなかった。

受け止めるには、二十年は長すぎた。

長すぎるものは、一度には来ない。

あの日は、来た端だけを見た。

残りは、それから二十三年かけて、少しずつ来ている。

第四章 捨てなかった

母は、湯呑みを捨てなかった。

父の物は、少しずつ片づけた。

服も、靴も、眼鏡も、片づけた。

湯呑みだけが、流しの横に残った。

伏せたまま、残った。

捨てれば、と一度だけ言った。

母は、そうね、と言った。

言って、捨てなかった。

それから十五年、母は生きた。

十五年、湯呑みは、伏せたまま、流しの横にあった。

母が使うことはなかった。

こちらが使うこともなかった。

ただ、あった。

母が死んだあと、家を片づけた。

湯呑みを、手に取った。

捨てる箱に、入れた。

入れて、出した。

出して、また入れた。

三度やって、出したまま、こちらの家に持って帰った。

いま、こちらの台所の、流しの横にある。

妻が一度、それを使おうとした。

茶を淹れるのに、手に取った。

それは、と言った。

言っただけで、理由は言わなかった。

妻は、戻した。

それから、使わない。

第五章 証拠

これは、証拠だと思っている。

父が飲んだ証拠ではない。

三人で、見なかったことにした証拠だ。

湯呑みは、飲んだ人の物ではなく、見なかった人たちの物になった。

母が捨てなかったのは、たぶん、そのためだ。

捨てると、見なかったことにしたことまで、捨てることになる。

それは、母にはできなかった。

こちらにも、できなかった。

だから、ここにある。

妻は、なぜあるのかを知らない。

父の湯呑みだ、とだけ言ってある。

それ以上は、聞かれていない。

聞かれれば、言う。

言わずに済んでいるのは、聞かれないからだ。

聞かれない状態を、こちらが作っている気もする。

作っているとしたら、また、同じことをしている。

同じことを、三代目で、また、している。

三代目、というのは、正しくないかもしれない。

父の父のことは、知らない。

父が何を見なかったことにして育ったのかも、知らない。

知らないので、二代目かもしれないし、もっと前からかもしれない。

エピローグ

今夜も、流しの横に、伏せてある。

こちらは、酒を飲まない。

飲まないと決めたのは、二十歳のときだ。

二十歳の誕生日に、父が湯呑みに注いで、こちらに差し出した。

受け取らなかった。

父は、何も言わずに、自分で飲んだ。

あれが、こちらから父への、唯一の言葉だったと思う。

言葉ではなかったが、父には通じたと思う。

通じたかどうかを、確かめなかった。

理由を、誰にも言っていない。

言わなくても、湯呑みがある。

湯呑みがあるので、理由は言わなくていい。

伏せた湯呑みが、理由の代わりをしている。

二十三年、代わりをさせている。

代わりをしているのに、誰もそれを読まない。

読めるのは、こちらだけだ。

こちらだけが読めるものを、台所に置いて、毎晩、その横を通る。

母が、父の横を通ったのと、同じ通り方で。

おやすみ、とは、言わない。

言う相手が、もういない。

いないので、湯呑みの前を、黙って通る。

通るときに、欠けたふちが目に入る。

目に入るのに、見ない。

見ないことが、もう、こちらの通り方になっている。

黙って通ることを、たぶん、また、見なかったことにしている。

ソウルミッション358

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