生垣の隙間
見なかったことにしたこと

朗読で聴く
第一章 二度
六十四になった。
この家に、三十年住んでいる。
隣の家とのあいだに、生垣がある。
背の高さほどで、下のほうに、枝が薄いところが一つある。
そこから、隣の庭が見える。
見ようとしなくても、洗濯物を干すときに目に入る。
物干しは、生垣に沿って立てている。
三十年、動かしていない。
動かせば、隙間は目に入らなくなる。
動かさなかった理由を、はじめの二十六年は考えなかった。
二十六年前の夏、隣の子が、その庭にいた。
七つだった。
腕に、痣があった。
二の腕の内側で、指の形をしていた。
見た。
一度目は、たまたまだと思った。
見た、というのは、正確ではないかもしれない。
目に入って、それが何かを、一瞬で分かった。
分かったことを、見たと呼んでいる。
二週間ほどして、また見た。
同じところだった。
二度目は、たまたまではなかった。
たまたまではない、と、そのときに分かった。
分かって、洗濯物を干した。
干して、家に入った。
隣の家は、若い夫婦と、その子ひとりだった。
父親は、朝早く出て、夜遅く帰った。
母親は、昼間、家にいた。
どちらの指の形なのかは、考えなかった。
考えると、決めることになる。
決めると、次にすることが出てくる。
出てこないように、考えなかった。
第二章 言わなかった
誰にも言わなかった。
夫にも言わなかった。
言えば、夫は何かをすると思った。
何かをすると、隣との関係が変わる。
変わったあとの三十年を、こちらが受けることになる。
そう考えた。
考えたことを、いまでもそのまま思い出せる。
考えの順番まで、思い出せる。
順番が正しかったのかどうかは、二十六年たっても分からない。
あのとき、こちらは三十八だった。
自分の子は二人いて、上が十、下が七だった。
下の子と、あの子は、同じ年だった。
同じ年の子の腕を見て、こちらは自分の子の腕を見た。
何も無かった。
無いことを確かめて、それで済ませた。
済ませたのは、自分の子のほうだった。
分からないというのは、たぶん、正しくなかったということだ。
正しければ、分かっているはずだ。
役所に電話する、という方法があるのは知っていた。
番号も、知ろうと思えば知れた。
知ろうとしなかった。
知ると、かけないことが、決めたことになる。
知らないでいれば、決めていないことにできる。
決めていないことにして、二十六年たった。
あの子は、その後も庭にいた。
見えるたびに、腕を見た。
三度目は、無かった。
無かったことで、少し楽になった。
楽になったことを、いまは、いちばん恥じている。
無かったのではなく、見えないところに変わっただけかもしれない。
そう考えるのを、あのころは、やめていた。
第三章 黒くした
見たものは、二つだ。
一度目の痣と、二度目の痣。
その二つだけを、はっきり覚えている。
二つの周りは、覚えていない。
あの子がその日何を着ていたか、何をしていたか、庭に誰がいたか。
覚えていないのではなく、たぶん、見ていなかった。
見なかったことにするというのは、そういうことだ。
見たものの周りを、黒くする。
黒くすれば、見たものが、ぽつんと一つになる。
一つなら、なかったことにできる気がする。
できなかった。
二つは、二十六年、そのまま光っている。
周りが黒いので、余計に光る。
黒くしたのは、こちらだ。
黒くする作業は、毎日少しずつやった。
思い出しそうになると、別のことを考えた。
別のことは、いくらでもあった。
いくらでもあることが、助けになった。
黒くしなければ、周りに何かがあって、二つは埋もれたかもしれない。
埋もれなかった。
埋もれないように、こちらが黒くした。
そういう順番だったのだと、いまは思う。
夫は、七年前に死んだ。
最後まで言わなかった。
言えば、夫も一緒に黒くすることになる。
一人で黒くしているほうが、まだましだと思った。
ましかどうかは、分からない。
分からないことが、多すぎる話だ。
第四章 年賀状
あの子は、いま三十三になる。
隣の家は、十五年前に引っ越した。
引っ越した先は、知らない。
引っ越すとき、あの子は十八だった。
挨拶に来て、お世話になりました、と玄関で言った。
母親が横にいた。
こちらは、お元気で、と言った。
それだけだった。
あの子の腕は、長袖の中にあった。
十一月だったので、当たり前だった。
去年の正月に、年賀状が来た。
あの子の名前で来た。
結婚して、名字が変わっていた。
子どもが生まれました、と印刷してあった。
写真は無かった。
手書きの言葉が、一つ添えてあった。
小さいころ、お世話になりました、と書いてあった。
お世話は、していない。
何もしていない。
何もしなかったことを、あの子は知らない。
知らないので、お世話になりました、と書ける。
書けることが、こちらには、いちばんこたえた。
返事は書いた。
おめでとう、と書いた。
それ以上は、書けなかった。
書くことが無いのではない。
おめでとう、の四文字を、三度書き直した。
書き直しても、同じ四文字になった。
年賀状は、仏壇の引き出しに入れてある。
夫の写真の下だ。
夫に見せる形になっているのが、自分でも変だと思う。
変だと思いながら、そこに入れた。
第五章 隙間
生垣の隙間は、いまもある。
枝が薄いところは、三十年、同じところだ。
埋めようと思えば、埋められる。
枝を足すか、板を一枚立てればいい。
していない。
隣は、いまは別の家族が住んでいる。
子どもはいない。
庭には、何も見えない。
見えないものを、洗濯物を干すたびに、見ている。
見ているのは、庭ではない。
隙間だ。
隙間は、あの日と同じ大きさだ。
枝が伸びて狭くなったこともあるが、また戻る。
隙間を見て、二十六年前の二つを思い出す。
思い出して、干す。
干して、家に入る。
二十六年前と、同じ順番だ。
順番が変わらないことで、あの日が終わっていないことが分かる。
終わっていないものを、毎週、干している。
干しているあいだ、隙間のほうを向かないように立つこともできる。
できるのに、しない。
向かないように立つと、それも、見なかったことにすることになる。
二度目は、しない。
エピローグ
今日も干した。
隙間を見た。
何も無かった。
何も無いことを、確かめるように見た。
確かめて、どうなるわけでもない。
あの子は三十三で、子どもがいる。
その子の腕を、あの子が見ているかどうかは、分からない。
見ていてほしい、と思う。
思う資格が、こちらに無いことも、分かっている。
資格が無いまま、思う。
思うことは、誰にも止められない。
止められないので、思っている。
思うだけで、何もしない。
二十六年前と、同じだ。
同じことを、隙間の前で、毎週やっている。
やめる方法は、隙間を埋めることだ。
埋めない。
埋めると、見なかったことにしたことを、見なかったことにすることになる。
それは、もう、できない。
できないことが、一つだけ、こちらに残っている。
残っているものが、隙間の形をしている。
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