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二番目の椅子

あった場所だけを覚えていること

二番目の椅子

朗読で聴く

第一章 三十八年

七十三になった。

三十八年、同じ理髪店に通った。

町に二軒あるうちの、駅に近いほうだ。

月に一度、第一土曜の朝に行った。

椅子は三つあって、窓側から二番目が、こちらの椅子だった。

決めたのは、最初の日だ。

入ったときにそこが空いていて、座った。

次の月も、そこに座った。

それから三十八年、一度も別の椅子に座っていない。

二番目に何かがあったわけではない。

窓からの光の入り方が、少しよかった。

それくらいだ。

それくらいのことで、三十八年が決まった。

混んでいて二番目がふさがっているときは、待った。

待つのは、いつも十分か十五分だった。

店主は、こちらより五つ年下だ。

最初の日は、まだ若かった。

父親の店を継いだばかりで、手が少し硬かった。

硬かった手が、ほぐれていくのを、三十八年、月に一度、後ろから見ていた。

見ていたというより、鏡の中にいた。

鏡の中に、いつも同じ位置で、二人がいた。

話は、あまりしなかった。

天気と、町の道路のことと、店主の子どもの学校のこと。

子どもは二人いて、二人とも大きくなって、遠くにいる。

その二人が生まれたのも、出ていったのも、椅子の上で聞いた。

聞いただけで、会ったことはない。

こちらのことも、店主は椅子の上で聞いただけだ。

妻が死んだことも、椅子の上で言った。

言ったとき、店主の手が一度止まって、それから続いた。

止まったのは、二秒ほどだった。

その二秒を、いまでも覚えている。

二秒のあいだ、鏡の中の店主は、こちらではなく、こちらの頭を見ていた。

見て、それから、また刈った。

第二章 閉店

去年の秋に、店が閉まった。

店主が、腰を悪くしたからだ。

立っていられなくなった、と言った。

最後の月は、こちらが最後の客だった。

最後だと言われていたので、いつもより少し長く座っていた。

長く座っても、することは同じだった。

刈って、洗って、拭いて、鏡を見せる。

鏡を見せて、終わりだった。

ありがとう、と言った。

こちらこそ、と言われた。

三十八年で、こんなに短い言葉で済んだことはなかった。

済んでしまったので、店を出た。

出てから、椅子のことを思った。

もう座らない椅子のことを、思った。

椅子のことを思うのは、変だと思った。

店主のことを思うほうが、筋が通っている。

でも、先に来たのは椅子だった。

三十八年、月に一度、体を預けたものだ。

体のほうが、先に思い出したのだと思う。

第三章 片づけの日

年が明けて、店の片づけを手伝った。

頼まれたのではない。

通りかかって、店主が中で一人でやっているのが見えたので、入った。

椅子を、三つとも運び出した。

運び出して、床が見えた。

店主が、床を見て、言った。

あなたの椅子、床がそこだけ減ってるんですよ、と言った。

見ると、二番目の椅子があったところの、後ろ側だけ、床の板が白っぽくなっていた。

店主が立つ位置だ。

こちらの椅子の後ろに、店主が三十八年、月に一度立った。

その分だけ、減っていた。

一番目と三番目の後ろは、そこまで減っていない。

常連が少ない椅子だったのだと思う。

二番目の後ろだけが、減っていた。

減っていたのは、こちらが座ったからだ。

こちらが座らなければ、そこに店主は立たなかった。

三十八年、月に一度の、たぶん三十分ずつ。

それが、床に出ていた。

店主が、そこに立って、少し足で床をこすった。

こすっても、減ったところは戻らない。

戻らないものを、二人で見ていた。

こちらの三十八年が、床の色の違いになっていた。

色の違いは、五十センチ四方ほどだった。

第四章 左から

店主が、もう一つ言った。

言おうかどうか迷った顔をしてから、言った。

あなたのときだけ、左から刈りはじめるんです、と言った。

ほかの人は右からだ、と言った。

理由は、分からない、と言った。

三十八年、そうだった、と言った。

こちらは、知らなかった。

鏡を見ていたのに、気づいていなかった。

鏡の中で、店主の手がどちらから来るかを、一度も見ていなかった。

見ていなかったものを、三十八年、受けていた。

受けていたものの向きを、こちらは知らなかった。

知らなくても、受けていた。

受けていたことは、体のどこかに入っている。

店主は、理由が分からないと言った。

たぶん、最初の日に、何かがあった。

こちらの頭の形か、座り方か、何かに合わせて、左からはじめた。

はじめたものが、そのまま残った。

残ったものを、店主の手が三十八年、覚えていた。

店主の頭は、覚えていなかった。

手だけが、覚えていた。

その手が、こちらの椅子の後ろの床を減らした。

店主は、椅子を新しい店に売ると言った。

床は、次に入る店が張り替える。

減ったところは、無くなる。

無くなる前に、聞けてよかった、と店主が言った。

こちらも、そう思った。

聞かなければ、三十八年、知らないままだった。

第五章 覚えていた側

家に帰って、考えた。

こちらは、店を覚えていた。

椅子を覚えていた。

二番目、と決めていたことを覚えていた。

覚えていたのは、こちらの側だと思っていた。

違った。

床が、こちらを覚えていた。

店主の手が、こちらを覚えていた。

こちらが覚えていたものより、向こうが覚えていたもののほうが、正確だった。

こちらは、椅子の番号を覚えていた。

向こうは、こちらの頭の左側を覚えていた。

三十八年、月に一度、左からはじめる手を、こちらは受けていた。

受けていながら、知らなかった。

知らないものが、床に出るまで減っていた。

自分がいた場所を、自分は覚えていなかった。

覚えていたのは、床と、人の手だった。

それを知ったのは、店が閉まって、椅子が運び出されてからだ。

椅子があるあいだは、見えなかった。

見えなくしていたのは、椅子だった。

椅子は、こちらを座らせて、その下を隠していた。

隠していたものが、椅子を運び出したときに出た。

出たものは、こちらの形をしていなかった。

店主の足の形をしていた。

こちらがいたことを、店主の足が残していた。

エピローグ

いまは、もう一軒のほうに通っている。

椅子は二つある。

空いているほうに座る。

どちらに座るかを、決めていない。

決めないでいると、店の人はたぶん、こちらを覚えない。

覚えないほうが、いいのかどうかは、分からない。

床は、まだ減っていない。

減るには、三十八年かかる。

こちらには、三十八年は無い。

無いので、この店の床は減らない。

減らない床の上で、右から刈られている。

新しい店の人は、こちらを覚える前に、こちらのほうが通えなくなる。

それは、たぶん、そういうものだ。

右からだと、少し落ち着かない。

落ち着かない理由が、去年まで分からなかった。

いまは分かる。

頭の左側が、三十八年ぶんの手を覚えている。

覚えているのは、こちらではなく、頭のほうだ。

頭のほうは、こちらに何も言わない。

言わないまま、右から来る手に、少しだけ抗っている。

抗っていることを、店の人は知らない。

知らないまま、右から刈る。

それでいい。

三十八年ぶんは、もう、床に出てしまった。

ソウルミッション358

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