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手が、先に上がる

あった場所だけを覚えていること

手が、先に上がる

朗読で聴く

第一章 釘

五十九になった。

この家に、二十六年住んでいる。

玄関を入って右の壁に、釘が一本あった。

鍵を掛けるための釘だ。

夫が、越してきた最初の月に打った。

背の高さより少し下、手を上げれば届くところだ。

家の鍵と、車の鍵と、自転車の鍵を、そこに掛けた。

帰ってきたら、まず鍵をそこに掛ける。

出るときは、そこから取る。

二十三年、そうしていた。

子どもは二人いて、二人とも同じ釘を使った。

小さいころは届かなくて、踏み台を置いた。

届くようになった年を、二人とも覚えているらしい。

上の子は中一の春、下の子は中二の秋だと言う。

釘一本に、そういう年がついていた。

二人とも、いまは家を出ている。

帰ってくると、玄関で一瞬止まる。

止まって、左のフックに掛ける。

止まる一瞬が、たぶん、あの高さだ。

三年前に、玄関を改築した。

壁を広げて、靴箱を作り直した。

釘のあった壁は、無くなった。

新しい壁には、鍵を掛ける場所を別に作った。

靴箱の横の、小さな板だ。

フックが三つ、並んでいる。

釘より低くて、少し左にある。

そこに掛けるように、なった。

フックは、こちらが選んだ。

高さも、こちらが決めた。

自分の手が楽に届くところにした。

二十三年で初めて、自分の高さに掛ける場所ができた。

できたのに、手はそこへ先に行かない。

なったはずだった。

改築は、こちらが言い出した。

玄関が狭くて、冬に靴が置ききれなかったからだ。

釘のことは、業者との打ち合わせで一度も出なかった。

出なかったので、無くなった。

無くなることを、決めた覚えがない。

決めていないものが、無くなった。

第二章 宙をつかむ

帰ってくると、まず手が上がる。

右の壁の、釘のあった高さまで上がる。

上がって、何もつかまない。

つかむものが無いので、宙をつかむ。

つかんでから、気づく。

気づいて、手を下ろして、左のフックに掛ける。

毎日、一回、それをやる。

三年たっても、やる。

回数を数えたことはないが、千回は超えている。

千回やっても、直らない。

千回のうち、一度も先にフックへ行ったことがない。

一度もない、というのが、自分でも意外だった。

千回あれば、一度くらい間違えて正しいほうへ行きそうなものだ。

行かない。

直らないというより、手が、その順番でしか動かない。

頭は、釘が無いことを知っている。

知っているのに、手のほうが先に動く。

手が動いてから、頭が追いつく。

追いついたときには、もう宙をつかんだあとだ。

宙をつかんだ手を、下ろす。

下ろすときに、少しだけ、何かが残る。

何かというのが何なのかは、三年たっても分からない。

分からないまま、次の日も上がる。

宙をつかむときに、指が少し閉じる。

閉じてから、何も無いと分かる。

閉じる動きは、鍵の輪をつかむ動きだ。

鍵の輪は、いま左のフックにある。

右で閉じた指を、左まで持っていって、また開く。

この二度手間を、毎日やっている。

二度手間を、面倒だと思ったことはない。

面倒なら、直している。

第三章 高さ

釘の高さは、夫が決めた。

自分の手が楽に届くところに打った。

夫は、こちらより十センチほど背が高い。

だから、こちらには少し高かった。

少し高いところへ、二十三年、手を上げていた。

少し高いというのを、そのころは気にしていなかった。

気にするほどのことではなかった。

無くなってから、気にするようになった。

手が上がる高さが、こちらの高さではなく、夫の高さだからだ。

いま手が上がるのは、夫が決めた高さだ。

こちらの体に、夫の決めた高さが残っている。

残っているものを、こちらは毎日、宙でなぞっている。

なぞっていることに、去年まで気づいていなかった。

気づいたのは、夫の手を見たからだ。

自分の手は、見えない。

上がっているときは、上がっているほうに気が向いていて、見ていない。

人の手は、見える。

見えたので、自分の手のことも分かった。

第四章 夫の手

去年の春、たまたま二人で同時に帰ってきた。

夫が先に玄関に入った。

こちらは後ろにいた。

夫の手が、上がった。

右の壁の、釘のあった高さまで上がった。

何もつかまず、下りて、左のフックに掛けた。

こちらは、それを見ていた。

見て、何も言わなかった。

言えなかった。

同じことを、こちらが毎日やっているからだ。

夫が、振り返った。

こちらの顔を見て、少し笑った。

笑って、まだやるんだよな、と言った。

こちらも笑って、私も、と言った。

それだけだった。

それだけで、三年、二人とも言わなかったことが分かった。

二人とも、毎日やっていた。

二人とも、相手がやっているのを、たぶん見ていた。

見ていて、言わなかった。

見ていたことを、あとで聞いた。

知ってたよ、と夫は言った。

こちらも、知ってた、と言った。

知っていて、三年、互いに黙っていた。

言わなかったのは、言うと直さないといけない気がしたからだと思う。

直したいわけではなかった。

直したくないわけでもなかった。

ただ、言うほどのことではない、と二人とも思っていた。

言うほどのことではないものを、二人で三年やっていた。

三年やると、言うほどのことになる。

なってから、やっと言えた。

言えたのは、笑えたからだ。

笑えなかったら、たぶん、まだ言っていない。

第五章 同じ高さ

あの日から、少し変わった。

変わったのは、手ではない。

手は、いまも上がる。

変わったのは、上がる手を、隠さなくなったことだ。

夫がいるときも、上がる。

夫の手も、こちらがいるときに、上がる。

どちらも、何も言わない。

言わないまま、二人の手が同じ高さに上がる。

同じ高さというのが、たぶん、いちばん変なことだ。

夫が決めた高さに、こちらの手が上がる。

夫の手も、当然そこに上がる。

二人の体が、同じ高さを覚えている。

同じ壁を覚えているのではない。

壁は無い。

高さだけが、二人の中に残っている。

高さには、もう何も掛かっていない。

何も掛かっていない高さに、毎日、二つの手が上がる。

それを、直そうとは、もう思っていない。

直すというのは、釘をもう一度打つことだ。

打てば、手は上がったところで鍵をつかむ。

つかめば、宙をつかまなくなる。

宙をつかまなくなるのが、少し惜しい。

惜しいと思う理由を、まだ言葉にできていない。

エピローグ

今日も、帰ってきて、手が上がった。

宙をつかんで、下ろして、左に掛けた。

夫は、まだ帰っていない。

帰ってくれば、同じことをする。

見ていなくても、分かる。

分かるので、見なくてもいい。

新しい壁は、白い。

釘の穴も、何も無い。

何も無い壁の前で、手が上がる。

上がる先に、二十三年ぶんの高さがある。

高さは、目に見えない。

見えないので、誰にも分からない。

分かるのは、この家の二人だけだ。

二人とも、毎日、そこに手を上げている。

上げて、宙をつかんで、下ろす。

それが、この家の、帰ってきたときの順番になった。

順番を作ったのは、二十三年前の釘だ。

釘は無いのに、順番だけが残っている。

残っているものを、二人で毎日なぞっている。

ソウルミッション358

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