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右に寄って立つ

あった場所だけを覚えていること

右に寄って立つ

朗読で聴く

第一章 流しの前

六十八になった。

妻は十四年前に死んだ。

五十九だった。

台所の流しは、幅が九十センチある。

妻は左に立った。

こちらは右に立った。

二人で立つと、ちょうど収まる幅だった。

妻が洗って、こちらが拭いた。

三十一年、その並びだった。

並びを決めた覚えはない。

結婚した最初の週に、なんとなくそうなった。

妻が右利きで、水道の栓が右にあったからだと思う。

こちらは拭くだけなので、どちらでもよかった。

どちらでもよかったほうが、残った。

妻が死んで、洗うのもこちらになった。

洗うなら、真ん中に立てばいい。

真ん中に立ったことがない。

十四年、右に寄って立っている。

左は空いている。

空いているところに、何も置いていない。

置こうと思えば置ける。

水切りの籠でも、洗剤の瓶でも、そこに置けば便利だ。

置いていない。

一度、娘が籠をそこに置いた。

帰ったあとで、元の場所に戻した。

戻しながら、なぜ戻すのかを考えなかった。

考えないで戻せるくらい、決まっていることだった。

置くと、そこが埋まる。

埋まると、右に寄る理由が無くなる。

理由が無くなっても、たぶん右に寄る。

寄るのに理由が要らなくなるのが、たぶん嫌なのだと思う。

娘は一人で、隣の市にいる。

月に一度ほど、様子を見に来る。

来ると、台所を見て、何も言わない。

言わないのは、気づいていないからだと思う。

気づく人は、たぶん、いない。

気づかれないことを、望んでいるのだと思う。

気づかれると、説明することになる。

説明すると、十四年が、話になる。

話にすると、体のほうが置いていかれる。

流しの右に立つ男を見て、左が空いていると思う人はいない。

第二章 床

床は、木の板の上にワックスを塗ったものだ。

年に一度、こちらが塗る。

塗る前に、いつも同じところを見る。

流しの前の、右寄りだ。

そこだけ、ワックスの減り方が早い。

周りより少し白っぽくなって、艶が無い。

妻がいたころは、左寄りも同じように減っていた。

左と右、二つ並んで減っていた。

いまは右だけが減る。

左は、十四年、減っていない。

十四年、誰もそこに立っていない。

立たないところは、減らない。

減らないことが、いちばん正確な記録になっている。

減っていないところは、周りと同じ艶を保っている。

同じ艶なのに、そこだけ違って見える。

板の色は同じで、艶も同じで、それでも分かる。

分かるのは、隣が減っているからだ。

隣が減っていなければ、ただの床だ。

減っていないことで、見えている。

塗るときに、そこにもワックスを塗る。

塗っても、減らないので、減っているところとの差は毎年少しずつ広がる。

広がることを、止める方法は一つしかない。

こちらが真ん中に立つことだ。

立たない。

塗るのは、毎年、妻の命日の前の週だ。

決めたわけではない。

最初の年にたまたまそうなって、そのまま続いている。

続いているので、命日が近づくと、床の減りを見ることになる。

見ると、一年ぶんの立ち方が、そこに出ている。

出ているものを、上から塗る。

塗っても、消えない。

減った分は、戻らない。

戻らないものを、毎年一度、目で確かめる。

確かめるだけで、それ以上のことはしない。

第三章 張り替え

去年の秋に、台所の床を張り替えた。

板が一枚、腐っていたからだ。

流しの下の水漏れで、気づくのが遅れた。

業者は、床全部を替えたほうがいいと言った。

全部替えた。

新しい板は、均一な色をしていた。

減っているところも、減っていないところも無くなった。

張り替えた日の夜、流しの前に立った。

右に寄って立った。

立ってから、気づいた。

新しい床の上でも、右に寄っていた。

床が覚えていたのではなかった。

こちらの足が覚えていた。

床は、こちらの足が覚えているものを、写していただけだった。

写す先が新しくなっても、写すもとは同じだ。

それが分かった夜だった。

分かって、何かが変わったかというと、変わっていない。

変わらないことが、分かっただけだ。

床を替えても、こちらは替わらない。

今日も右に寄って立っている。

業者の人が、張り替えの日に言った。

ここだけ、ずいぶん減ってましたね、と言った。

立つ場所が決まってるんです、と答えた。

そうですよね、と言われた。

それ以上は聞かれなかった。

聞かれなくて、よかった。

第四章 左半分

人が来て台所に立つと、たいてい左に立つ。

空いているからだ。

娘が来ると、左に立って、こちらの横で何かを切る。

娘が左に立つと、少しのあいだ、楽になる。

楽になる理由を、娘には言っていない。

言うと、娘がそこに立たなくなる気がする。

気を遣って、別のところに立つようになる気がする。

だから言わない。

言わないので、娘は自然に左に立つ。

自然に立って、自然に帰る。

帰ったあとの左は、また空く。

空いた左を見て、また右に寄る。

この繰り返しが、十四年ある。

繰り返しの中で、一度も真ん中に立っていない。

真ん中に立つというのは、左が無かったことにするということだ。

無かったことには、できない。

できないので、右に寄る。

寄っていることを、体はもう考えていない。

考えていないので、直しようが無い。

第五章 知らされていない

体は、無くなったことを知らされていない。

頭は、十四年前に知った。

葬儀に出て、骨を拾って、書類を書いた。

頭のほうは、それで済んでいる。

体のほうには、誰も知らせに来なかった。

知らせに来ないので、体は左に人がいるつもりで立っている。

立っているだけで、何かを待っているわけではない。

待っていれば、来ないことが分かる。

分かれば、真ん中に寄る。

体は、待っていない。

待っていないので、来ないことも分からない。

分からないまま、右に寄る。

それを、こちらが直すことはできる。

真ん中に立てばいい。

一度、やってみたことがある。

立てた。

立てたが、洗い物のあいだじゅう、左側が気になった。

気になって、次の日から、また右に寄った。

寄ったほうが、洗い物が早く済む。

早く済むというのは、言い訳だと分かっている。

言い訳でも、洗い物は毎晩ある。

毎晩あるものは、言い訳ごと続く。

エピローグ

今夜も、右に寄って立った。

新しい床は、まだどこも減っていない。

減るのは、たぶん三年ほど先だ。

減りはじめれば、また右だけが減る。

減った右と、減らない左が、また並ぶ。

並んだところを、また見る。

見て、また塗る。

塗って、また減る。

そこまでが、この家の順番になっている。

順番の中に、妻はいない。

いないのに、左が空いている。

空いていることで、いたことが分かる。

分かるのは、こちらだけだ。

娘には、ただの空いた場所に見えている。

ただの空いた場所であることが、大事なのだと思う。

何かが置いてあれば、そこは置き場所になる。

何も置いていないので、そこは、いた場所のままでいる。

それでいい。

空いた場所に見えるように、空けてある。

空けてあることを、言葉にしたのは、今日が初めてだ。

言葉にしても、明日も右に寄る。

ソウルミッション358

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