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置いていったテーブル

置いていかれた物を使っていること

置いていったテーブル

朗読で聴く

第一章 三十九年前

七十になった。

三十九年前に、離婚して家を出た。

三十一のときだ。

子はいなかった。

出るとき、持っていけるものだけを持っていった。

車一台に入るぶんだけだ。

入らなかったものは、置いていった。

そのなかに、台所のテーブルがあった。

母から継いだものだ。

母が結婚したときに祖母から渡されたもので、こちらで三代目になる。

脚が太くて、天板が厚い。

一人では持ち上がらない。

車には入らない。

だから、置いていった。

置いていくときに、何かを思ったかどうか、覚えていない。

覚えていないということは、たぶん、何も思わなかった。

それどころではなかった。

家を出るほうに、頭が全部使われていた。

テーブルのことは、出てから半年ほどして思い出した。

思い出して、ああ、と思った。

いまの家には、その半年後に入った。

小さな家で、台所も小さい。

あのテーブルは、入らなかったと思う。

入らなかったと思うことで、置いていったことに理由がついた。

理由は、あとからつけた。

つけたことは、覚えている。

第二章 終わったもの

その家には、その後、別の人が住んだ。

元の夫は、三年ほどで家を売った。

売ったことは、人づてに聞いた。

テーブルがどうなったかは、聞かなかった。

聞くほどのことだと思わなかった。

家を売れば、中のものも一緒に行く。

行った先で、捨てられるか、使われるかは、向こうの話だ。

こちらには、もう関係が無い。

そう思っていた。

思っていた、というより、考えていなかった。

三十九年、考えていなかった。

考えていなかったのは、忘れていたのとは少し違う。

忘れたものは、思い出せる。

考えていなかったものは、思い出す入口が無い。

入口は、去年、向こうから来た。

置いていったものは、置いていった時点で終わる。

終わったものを、あとから思い出すことはあっても、続いているとは思わない。

テーブルは、こちらの中では、三十九年前に終わっていた。

終わったものの話を、去年、手紙で読むことになった。

母は、テーブルを渡すときに、何も言わなかった。

言わなかったのは、言うまでもなかったからだと思う。

母の母から母へ、母からこちらへ。

その先が無いことを、母は知らなかった。

知らないまま死んだ。

こちらが置いていったことも、知らない。

第三章 手紙

去年の秋に、手紙が来た。

差出人は知らない名前だった。

住所は、あの家だった。

三十九年前の、あの家の住所だった。

手紙は短かった。

家の登記の関係で古い書類を見ていたら、こちらの名前が出てきた、と書いてあった。

それで住所を調べて、書いた、とあった。

用件は、一つだった。

台所のテーブルのことだった。

あなたのテーブルを、うちの子どもが毎日宿題に使っています、と書いてあった。

返してほしいのではありません、とも書いてあった。

ただ、誰のものだったのかを知ったので、知らせたかった、と。

それだけの手紙だった。

読んで、しばらく座っていた。

返事は、まだ書いていない。

何を書けばいいのかが、分からない。

手紙には、子どもの年も書いてあった。

九つだと書いてあった。

九つの子が、母のテーブルで、毎日宿題をしている。

母が生きていたら、と一度だけ思った。

一度だけで、やめた。

母が生きていたら、こちらは置いていかなかったかもしれない。

そこまで考えると、話が別のところへ行く。

第四章 向き

こちらにも、置いていかれたものを使っている経験がある。

いまの家に、前の住人が置いていった棚がある。

ガレージの壁に、ネジで留めてある。

外すのが面倒で、そのまま使っている。

三十年、そのまま使っている。

工具と、ペンキの缶と、庭の道具を載せている。

誰のものだったかは、知らない。

知ろうと思ったこともない。

使っていることを、悪いと思ったこともない。

棚は、こちらが来る前からそこにあった。

あったものを使っている。

それだけだ。

棚は、こちらの中では、とっくにこちらのものだ。

手紙を読んでから、その棚のことを考えた。

あの棚を置いていった人は、どこかにいる。

その人は、あの棚のことを覚えていないだろう。

覚えていないものを、こちらが三十年使っている。

それと同じことが、テーブルに起きていた。

同じことなのに、向きが違うと、別のことになる。

棚のほうは、何とも思わない。

テーブルのほうは、手紙を読んでから、何かがある。

何かがあるのに、名前がつかない。

三十九年前に、あの棚の持ち主に手紙を書こうと思ったことは、一度も無い。

思わなかったのが当たり前だと思っていた。

向こうは、思った。

思って、調べて、書いた。

その違いが、たぶん、名前のつかない何かの正体に近い。

第五章 返す先

棚には、返す先が無い。

誰のものだったかを知らないからだ。

知らないので、返せない。

返せないので、使っている。

それで済んでいる。

テーブルには、返す先がある。

こちらだ。

でも、向こうは返そうとしていない。

返してほしいのではありません、と書いてあった。

だから、テーブルは向こうに残る。

残って、毎日、子どもが宿題をしている。

母のテーブルで、知らない子が宿題をしている。

それを、悪いことだとは思わない。

母も、たぶん、悪いとは言わない。

使われているほうが、しまわれているよりいい、と言う人だった。

むしろ、いいことだと思う。

いいことだと思うのに、何かが残る。

残るものの正体を、少しずつ考えた。

自分が使ってきたものには、返す先があった。

返す先があるものを、こちらは使ってきた。

自分が置いていったものには、返す先が無かった。

向こうから見れば、あった。

こちらだった。

こちらは、その先に、三十九年、いなかった。

いなかったことを、責める人はいない。

手紙も、責めていない。

責めていないので、返しようが無い。

責められれば、謝ればいい。

知らせただけのものには、返す言葉の形が無い。

エピローグ

手紙は、台所の引き出しに入れてある。

返事は、たぶん、書く。

いつ書くかは、決めていない。

書くとしたら、ありがとう、と書く。

ありがとう、が合っているのかは、分からない。

合っていなくても、ほかに無い。

使ってください、と書く。

それ以上のことは、書くことが無い。

テーブルのことを、いまは、時々思い出す。

三十九年、思い出さなかったものを、去年から思い出している。

思い出すたびに、宿題をしている子のことを考える。

その子は、テーブルが誰のものだったかを、たぶん知らない。

知らないまま、毎日使っている。

こちらが棚でやっていることを、その子はテーブルでやっている。

こちらは、それを知っている。

知っているのは、こちらだけだ。

知っているだけで、何もしない。

何もしないまま、返事を書く日を待っている。

待っているあいだも、ガレージの棚は使っている。

今朝も、ペンキの缶を一つ載せた。

載せるときに、少しだけ、手が止まった。

止まったのは、去年からだ。

ソウルミッション358

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