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返せる物を、返していない

置いていかれた物を使っていること

返せる物を、返していない

朗読で聴く

第一章 時計

六十一になった。

二十三年前に、妻が出ていった。

離婚の手続きは、その翌年に済んだ。

理由は、ここには書かない。

書けないのではなく、書いてもこの話には関係がない。

妻は、いろいろな物を持っていった。

衣類と、本と、台所のいくつかと、母親からもらった箪笥。

置いていった物も、いくつかある。

そのなかに、目覚まし時計が一つあった。

白い、四角い、電池で動くものだ。

寝室の枕元に置いてあった。

出ていった朝も、そこに置いてあった。

持っていくのを忘れたのか、要らなかったのかは、分からない。

聞いていないし、聞く機会もなかった。

出ていったのは、こちらが仕事に出たあとだった。

帰ると、箪笥が無くなっていた。

箪笥が無いのが最初に分かって、それから残りが分かった。

時計は、残りのほうに入っていた。

次の朝、その時計で起きた。

鳴ったので、止めた。

止めて、起きて、仕事に行った。

それから二十三年、毎朝そうしている。

子はいない。

家は借家で、出ていったあとに一度だけ引っ越した。

引っ越すとき、時計も持ってきた。

持ってくるか置いていくかを、考えた覚えがない。

枕元にあったものを、そのまま箱に入れた。

考えなかったことを、あとで少し考えた。

考えなかったのは、もう毎朝のものになっていたからだと思う。

毎朝のものは、持ち物ではなく、順番のほうに入る。

第二章 十一回

電池は、これまでに十一回替えた。

二年に一度くらいの計算になる。

替えるたびに、裏の蓋を開ける。

蓋の内側に、小さな紙が貼ってある。

妻の字で、六時二十分、と書いてある。

結婚する前から使っていた時計だと、あとで気づいた。

紙の字が、こちらの知っている妻の字より少し若い。

同じ人の字だが、若い。

つまり、この時計はもとから妻の物だった。

こちらが買ったものでも、二人で買ったものでもない。

二十三年使っているが、一度もこちらの物になっていない。

壊れない。

二十三年、一度も壊れなかった。

壊れれば、捨てる理由になる。

捨てる理由になれば、新しいものを買う。

買えば、この話は終わる。

壊れないので、終わらない。

替える理由が、いつまでも来ない。

紙の字を見るのは、二年に一度だ。

見るたびに、少しのあいだ、手が止まる。

止まるのは、字のせいではない。

この字を、二年に一度しか見ないことのほうだ。

二年に一度しか見ないのに、二十三年見つづけている。

数えると、十二回になる。

十二回で、二十三年。

そういう見方を、この時計は作った。

第三章 市内

妻は、市内にいる。

再婚はしていないと聞いた。

聞いたのは、共通の知り合いからで、十年ほど前だ。

住所も、だいたい分かっている。

車で二十分ほどのところだ。

時計は、返せる。

返そうと思えば、いつでも返せた。

箱に入れて、送ることもできた。

送るなら、住所を確かめればいい。

確かめるのに、電話を一本かければいい。

その一本を、二十三年かけていない。

理由は、はっきりしている。

返すと、会う用ができる。

用ができると、会うことになる。

会うことになると、二十三年ぶんの何かを、その場でやることになる。

やりたくないのではない。

やり方が分からない。

分からないので、返さない。

返さないでいると、時計は毎朝鳴る。

鳴るので、起きる。

それで一日がはじまる。

この順番が、二十三年動いていない。

一度、住所の近くまで行ったことがある。

用事のついでだった。

角を曲がれば見えるところで、曲がらなかった。

曲がらなかった理由も、はっきりしている。

時計を持っていなかったからだ。

持っていれば、渡す理由があった。

持っていないので、行く理由が無かった。

理由が無いところへは行けない。

次に来るときは持ってこよう、と思った。

思って、七年たつ。

七年のあいだに、そのあたりの道は少し変わった。

角の店が一度変わった。

角だけは、まだ曲がっていない。

第四章 こちらの物

人に言うと、たいてい同じことを言われる。

もう自分の物でいいでしょう、と言われる。

二十三年使っているのだから、と言われる。

その通りだと思う。

思うのだが、そうはなっていない。

自分の物というのは、捨てる権利があるということだ。

この時計を捨てる権利は、まだこちらに無い。

無いと思っている。

思っているだけで、法律の話ではない。

法律の話なら、とっくにこちらの物だ。

法律ではないところで、まだ妻の物だ。

だから、毎朝、人の物で起きている。

二十三年、人の物で起きている。

それを不快だと思ったことはない。

むしろ、慣れている。

慣れているから、もう替えられない。

替えると、朝の順番が変わる。

順番が変わると、二十三年の朝が、一度に古くなる。

古くなった朝の置き場所が、こちらには無い。

時計屋で新しいものを見たことはある。

どれも軽くて、音が小さかった。

この時計の音は、大きい。

二十三年前の音だ。

大きい音で起きる習慣が、もう体のほうに入っている。

小さい音では、たぶん起きられない。

起きられないというのは、言い訳かもしれない。

言い訳でも、朝は来る。

第五章 三日

去年の冬、時計が止まった。

朝、鳴らなかった。

目が覚めて、時計を見たら、針が三時で止まっていた。

電池ではなかった。

替えても、動かなかった。

その日は仕事を一時間遅れた。

帰りに、駅前の時計屋に持っていった。

古いものなので部品が無い、と言われた。

直せない、と言われた。

そのとき、ほっとした。

ほっとしたのは、自分でも意外だった。

直せないなら、返せない。

壊れた時計を返しには行けない。

返せないなら、決めなくていい。

決めなくていいので、ほっとした。

持って帰って、そのまま枕元に置いた。

三日目の朝、鳴った。

動いていた。

時計屋に聞いたが、そういうこともあります、と言われた。

それ以来、一度も止まっていない。

決めなくていい三日が、終わった。

終わったことに、少し腹が立った。

時計に腹を立てるのは変だが、そういう三日だった。

三日のあいだ、電池を抜いて置いてあった。

抜いたのは、動かないものに電池を入れておくのが嫌だったからだ。

動かない時計は、ただの白い箱だった。

白い箱を枕元に置いて、三晩寝た。

三晩とも、六時二十分より前に目が覚めた。

体のほうが、時計より先に覚えていた。

エピローグ

今朝も、六時二十分に鳴った。

止めて、起きた。

電池は、今年の春に十二回目を替えた。

蓋を開けて、紙を見た。

字は、若いままだ。

妻は、いま六十三のはずだ。

この字を書いたころは、二十代だった。

こちらは、その字を毎回見ている。

本人は、たぶん忘れている。

返せば、思い出すかもしれない。

思い出させたいのか、思い出させたくないのかが、分からない。

分からないまま、二十三年、返していない。

返せる物を、返していない。

それが、この時計の使い方になっている。

使い方というのは、たぶん、こちらが決めたものではない。

時計のほうが決めた。

鳴るので、起きる。

起きるので、返す用が今日も無い。

ソウルミッション358

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