家があっていいね
うらやまれること

朗読で聴く
第一章 この家
六十六になった。
この家で生まれた。
祖父が建てて、父が一度、建て替えた。
いまの建物は、築四十一年になる。
木造の二階建てで、南に小さな庭がある。
二十二年前に父が死んで、こちらが継いだ。
兄弟はいないので、話し合うこともなかった。
役所と司法書士のところへ行って、名前が変わった。
それだけだった。
妻は五年前に死んだ。
子はいない。
だから、いまはひとりで住んでいる。
部屋は六つある。
使っているのは二つだ。
台所と、一階の南の部屋で寝ている。
二階には、梅雨のあいだ以外は上がらない。
梅雨には上がる。
北側の部屋の天井に、染みがある。
朝、起きて、階段を上がって、見上げる。
広がっていないかを確かめる。
確かめるだけで、何かができるわけではない。
それでも上がる。
上がると、板の匂いがする。
子どものころから同じ匂いだ。
建て替えたのに、匂いは変わらなかった。
同じ土地の上だと、そうなるのかもしれない。
その部屋は、母が死ぬまで使っていた部屋だ。
いまは何も置いていない。
置くと、染みが見えにくくなる。
第二章 毎年ひとつ
毎年、どこかを直している。
去年は屋根の北側を替えた。
四十二万だった。
その前の年はしろありで、二十七万。
今年は給湯器を替える。
見積もりは十八万六千円で来ている。
来月に入れてもらう予定だ。
直すと、その隣から次が出る。
屋根を替えた次の年に、替えなかった側の下に染みが出た。
業者は、そういうものです、と言った。
悪気があって言ったのではない。
本当にそういうものなのだと思う。
固定資産税は年に十二万八千円。
これは毎年、同じ月に同じ額だけ来る。
直すぶんは、来る年と来ない年がある。
来ない年は、たいてい次の年に倍で来る。
帳面をつけているわけではないが、だいたい覚えている。
十年で、家に払った額のほうが、住んでいた値打ちより多い気がする。
気がする、というだけだ。
数えたことはない。
数えたら、たぶん、住み方が変わる。
業者は、三代目の人が来る。
祖父の代からの工務店だ。
むこうも同じくらいの年で、そろそろやめる話をしている。
やめられると、次を探さないといけない。
この家の直したところを全部知っている人は、あの人しかいない。
図面はあるが、直したところは図面に載っていない。
第三章 土地だけ
三年前に、一度売ろうとした。
妻が死んで二年目の春だった。
駅前の不動産屋に行った。
若い人が丁寧に説明してくれた。
土地は、この辺なら坪でいくらという話になった。
建物のところで、その人は少し言い方を選んだ。
建物はゼロで見ます、と言った。
ゼロというのは、無いものとして数えるということだ。
そのあと、もう一つあった。
解体に百八十万ほどかかるので、そのぶんは引かせてもらいます、と言われた。
引く、というのは、こちらが払うということだ。
四十一年住んだ家は、ゼロではなく、マイナスだった。
その日は礼を言って帰った。
帰り道で、腹は立たなかった。
嘘を言われたわけではない。
直すのに毎年かかるものは、買う人にもかかる。
当たり前のことを、当たり前に言われただけだ。
売る話は、そこでやめた。
やめた理由は、値段ではない。
売ってしまうと、あの染みを見上げる用が無くなる。
用が無くなると、朝に階段を上がらなくなる。
それだけのことだが、それが引っかかった。
あとで気づいたことがある。
あの若い人は、こちらに気を遣っていた。
建物はゼロで見ますという言い方も、そのために選んだのだと思う。
もっと短く言うこともできたはずだ。
気を遣われたのが分かって、それで、少し落ち着かなかった。
気を遣われるということは、こちらが困っていると見えたということだ。
困っていると見えたのは、あの日が初めてだった。
第四章 そうだね
人に会うと、たいてい同じことを言われる。
家があっていいね、と言われる。
家賃がいらないでしょう、と言われる。
年に何度も言われる。
同級生に言われ、近所に言われ、親戚に言われる。
どの人も、悪い意味で言っているのではない。
そうだね、と答える。
三十年ぐらい、そう答えてきた。
言い返さないのには、理由がある。
言い返すと、持っているのに文句を言っていることになる。
家を持っていない人に向かって、家の話をして、これが重いと言うことになる。
その言い方が、どうしても見つからない。
見つからないので、そうだね、と言う。
それに、言われていることは間違っていない。
この家は、たしかにある。
無いものをうらやまれているわけではない。
あるものをうらやまれていて、そのあるものが重い。
重いというのは、こちらの側の話だ。
向こう側からは見えない。
見えないものを、見せる言い方が無い。
言い方を考えたことはある。
夜に、寝る前に考えた。
いくつか作ってみた。
どれも、口に出すと言い訳に聞こえた。
言い訳に聞こえるのは、たぶん、こちらが得をしている面が本当にあるからだ。
家賃はいらない。
それは事実だ。
事実がある上で、別の事実を足そうとすると、足したほうが小さく見える。
小さいほうから言うと、言い訳になる。
第五章 一度だけ
一度だけ、本当のことを言った。
五年前、妻の葬儀のあとだった。
いとこが台所で茶を飲んでいた。
こちらより四つ下で、団地に住んでいる。
これで一人で広い家だな、いいなあ、と言った。
言い方は軽かった。
軽い言い方だったから、こちらも軽く言えると思った。
毎年どこか直すんだ、と言った。
去年は屋根で四十二万だった、と言った。
いとこは、黙った。
二秒か三秒だったと思う。
それから、そうか、と言った。
そうか、と言って、天気の話をはじめた。
こちらも天気の話をした。
その日はそれで終わった。
いまでも、あのときのことを思い出す。
いとこが悪いのではない。
悪いのは、たぶんこちらの言い方だ。
軽く言ったつもりが、金額を言ったところで軽くなくなった。
金額は、言うと、相手に何かを求める形になる。
求めていなかったのに、そういう形になった。
だから、それ以来、言っていない。
そうだね、と言うたびに、本当のことを言える場所が一つ減る。
五年かけて、いまはもう、どこにも無い。
妻には言えていた。
妻は同じ家に住んでいたので、言う必要もなかった。
屋根の話をすると、いくらだった、と聞いて、そうか、と言った。
それで終わりだった。
同じ側にいる人には、金額を言っても言い訳にならない。
いまは、同じ側に誰もいない。
エピローグ
今年の梅雨も、二階に上がった。
染みは、去年より少しだけ広い。
少しだけなので、今年は何もしない。
来月、給湯器が入る。
十八万六千円。
入れれば、しばらくは湯のことを考えなくてよくなる。
そのあと、また別のところが出る。
どこが出るかは分からないが、出ることは分かっている。
秋に同級生の集まりがある。
行けば、また言われる。
家があっていいね、と言われる。
そうだね、と答える。
答えたあと、少しのあいだ、天井の染みのことを考える。
考えていることは、相手には見えない。
見えないままで、話は次に進む。
それでいいのだと思っている。
思っているのに、毎回、少しだけ引っかかる。
引っかかったまま、家に帰る。
門から入って、玄関を上がる。
上がると、板の匂いがする。
この匂いのために払っているのだと思うことがある。
思うだけで、人には言わない。
言うと、それこそ、いい暮らしの話に聞こえる。
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