聞こえないのは、こちらだけだった
不快

朗読で聴く
第一章 棚の上の箱
六十九になった。
結婚して、四十六年になる。
この家に、四十年住んでいる。
子どもが二人育って、二人とも出ていった。
寝室は二階の、道路側にある。
朝は東から日が入る。
四十年、同じ部屋で寝てきた。
去年の春から、夫は二階の小さいほうの部屋で寝ている。
腰にはあっちのマットレスのほうがいい、と言われた。
そうなの、と答えた。
夫は七十三になる。
三年前に膝を手術して、そのころから腰も言うようになった。
だから、そういうものだと思った。
思ったというより、確かめなかった。
確かめる話だと思わなかった。
それきり、その話はしなかった。
秋に、寝室のクローゼットの上の棚を片づけた。
冬のものを出すためだ。
いちばん奥に、箱があった。
耳栓の箱だった。
二百組入りの、大きな箱だ。
開いていて、半分ほど減っていた。
しばらく、その箱を持ったまま立っていた。
それから、ガレージへ行った。
工具の棚の下の段に、同じ箱が四つあった。
どれも封が切ってあった。
夫は、几帳面な人ではない。
その人が、これだけは切らさないようにしていた。
工具の棚は、こちらはほとんど触らない。
触らない場所に置いてあった。
隠していた、というほどではない。
ただ、目につくところには置いていなかった。
第二章 いつから
その晩、台所で訊いた。
これは何、とは訊かなかった。
訊かなくても分かるものだったからだ。
いつから使っているの、と訊いた。
夫は少し黙ってから、最初から、と言った。
最初から、というのは、結婚した年からということだ。
最初から、と言われたときに、こちらは何も言えなかった。
言葉が出なかったのではない。
どれを訊けばいいのか、分からなかった。
訊きたいことが、いっぺんに多すぎた。
どうして言わなかったの、と訊いた。
言っても、どうにもならないと思った、と言われた。
それから、こう言われた。
一度、言ったよ、と言われた。
三年目に一度、言った、と言われた。
覚えていないだろう、と言われた。
覚えていなかった。
どんなふうに言われたのかも、思い出せない。
どこで言われたのかも、思い出せない。
三年目というと、上の子が生まれた年だ。
あの年のことは、ほかのことなら覚えている。
四十六年で、たった一度だ。
たった一度でも、言われていた。
言われていて、こちらが忘れていた。
忘れたということは、聞いたということだ。
聞いて、そのまま置いたということだ。
三年目に言って、そのあと四十三年、言わなかった。
言わなかったのは、優しさだろうか。
優しさだと思えば、こちらは楽になる。
楽になるので、そう思わないことにした。
第三章 娘
次の日、娘に電話をした。
四十二になる。
箱のことを話した。
娘は、少し笑った。
その笑い方に、含みは無かった。
もう昔のことだ、という笑い方だった。
笑ってから、お母さん、昔からすごいよ、と言った。
子どものころ、廊下の向かいの部屋で寝ていた。
ドアを閉めて寝ていた、と言った。
閉めないと眠れなかった、と言った。
知らなかった。
一度も聞いたことがない。
娘の部屋のドアが閉まっているのは、知っていた。
年ごろだからだと思っていた。
十二や十三の子は、ドアを閉めるものだ。
閉める理由が、こちらにあるとは思わなかった。
言わなかったの、と訊いた。
言ったって、しょうがないでしょう、と言われた。
しょうがない、という言い方を、二日で二度聞いた。
夫と娘が、同じ言い方をした。
二人で相談したわけではないだろう。
同じ家にいると、同じ言い方になるのだと思う。
十五年ほど前に、娘に一度言われたことがある。
病院で診てもらったら、と言われた。
覚えている。
お父さんが困っていないなら、いい、と答えた。
そう答えたときには、夫はもう三十年ぶん使っていた。
娘は最後に、気にしないで、と言った。
気にしないで、と言われて、はじめて気になった。
第四章 自分の音
自分では、聞こえない。
当たり前だが、その当たり前を、はじめて考えた。
眠っているあいだのことは、何も分からない。
寝る前と、起きたあとしか知らない。
あいだの七時間を、こちらは持っていない。
人は、自分の顔を直接は見られない。
鏡か、写真でしか見られない。
音も、それと同じだった。
同じなのに、顔ほどには気にしてこなかった。
その七時間を、夫は四十六年ぶん持っている。
娘も、十八年ぶん持っている。
こちらだけが、持っていない。
携帯で録ってみた。
枕元に置いて、朝に再生した。
最後まで聞けなかった。
二分ほどで止めた。
止めてから、もう一度はじめから聞いた。
二度目も、同じところで止めた。
消さずに、携帯に残してある。
うるさい、とか、恥ずかしい、とかではなかった。
知らない音だった。
自分の家から出ている、知らない音だった。
その音の隣で、人が眠っていた。
眠っていたというより、眠ろうとしていた。
四十六年、毎晩。
夫は朝、いつも先に起きている。
早起きの人だと思っていた。
早起きなのでは、なかったのかもしれない。
第五章 予約
医者の予約を取った。
来月だ。
こういうものは、機械で楽になることが多いらしい。
病院の人に、電話でいくつか訊かれた。
いつからですか、と訊かれた。
分かりません、と答えた。
答えてから、その答えの意味が分かった。
いつからか分からないのは、こちらだけだ。
夫に訊けば、たぶん年まで出てくる。
夫に、取ったよ、と言った。
そうか、と言われた。
よかったな、とも言われた。
こちらのために言っているのが分かった。
その晩も、夫は向こうの部屋で寝た。
当たり前だ。
予約を取っただけで、何かが変わるわけではない。
仮に来月から音が止まったとして、四十六年は残る。
残るものの置き場所が、まだ分からない。
医者に行っても、行かなくても、四十六年は動かない。
動かないものを持って、来月、病院に行く。
謝ろうとして、やめた。
謝ると、夫が何か言わなければならなくなる。
いいよ、と言わせることになる。
いいよ、と言わせるために謝るのは、こちらの都合だ。
だから、まだ謝っていない。
夫は、責めなかった。
四十六年、一度も責めなかった。
エピローグ
箱は、棚に戻した。
捨てなかった。
捨てるのは、こちらが決めることではない気がした。
ガレージの四つも、そのままにしてある。
隣の家の犬は、六年前に死んだ。
いまは静かだ。
静かになったとき、よかった、と思った。
思ったことを、はっきり覚えている。
いまも、自分の音は聞こえない。
聞こえないものを、直しに行く。
三十年、隣の家の音に文句を言ってきた。
犬のことも、車のことも言った。
言えるときは、いつも言ってきた。
言われる側にいたことは、一度も無いと思っていた。
四十六年、こちらのほうが、その音だった。
いちばん近くにいた人が、いちばん言わなかった。
いつか誰かが、こちらについて同じことを思う日が来る。
よかった、と思う日が来る。
その日のことは、こちらには聞こえない。
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