柄は、替えられます
不快

朗読で聴く
第一章 引っかかり
五十四になった。
結婚して、二十六年になる。
結婚した年に、夫の母から包丁を一本もらった。
立派なものだった。
鋼の、よく切れるものだ。
柄は木でできている。
その柄が、少しざらついている。
傷ではない。
ささくれでもない。
もともと、そういう仕上げなのだと思う。
もらったときのことは、よく覚えている。
新聞紙にくるんで、これ、使いなさい、と渡された。
礼を言うと、いいのよ、とだけ言われた。
うれしかったかというと、よく分からない。
あのころは、何をもらっても身構えていた。
包丁だったことにも、少し身構えた。
いま思えば、深い意味は無かったのだと思う。
台所にあるものを、一つ持たせただけだ。
握ると、右の手のひらの付け根に、細かく引っかかる。
痛くはない。
痛ければ、たぶんその日のうちに何とかしていた。
痛くないので、そのまま二十六年になった。
濡らして拭くと、少しましになる。
乾くと、戻る。
毎日ではないが、ほとんど毎日、握っている。
一日に何度も握る。
朝、昼、晩。
二十六年ぶん、同じところに当たっている。
いつのころからか、右の手のひらの一点が、うっすら硬くなった。
風呂で石鹸をつけると、そこだけ感触が違う。
握っていないときも、そこがあるのが分かる。
台所に立つのは、一日に三時間ほどだ。
そのあいだ、包丁を持っている時間は、そう長くない。
長くないのに、覚えているのは柄のほうだ。
切ったものは忘れる。
握った感じは、忘れない。
第二章 よく切れる
刃は、文句のつけようがない。
二十六年たっても、切れる。
トマトが、押さずに切れる。
年に一度、駅前の店に研ぎに出している。
小さな店で、主人が一人でやっている。
三日で仕上がる。
受け取りに行くと、いつも紙に包んで渡してくれる。
柄も替えられますよ、と最初に言われたのは、十年ほど前だ。
三千円ほどだと言われた。
結構です、と答えた。
二度目は、その四、五年あとだった。
同じことを言われて、同じように答えた。
三度目は、去年だ。
柄、けっこう来てますね、と言われた。
替えると、ずいぶん持ちやすくなりますよ、と言われた。
結構です、と答えた。
主人は、それ以上は言わなかった。
言われるたびに、少し困る。
断る理由を、こちらが持っていないからだ。
高くはない。
三日で済む。
刃はそのまま使える。
断る理由が無いのに、断っている。
主人は六十の半ばくらいだろうか。
柄のことを言うとき、いつも同じ言い方をする。
押し売りではない。
こちらのために言っている。
それが分かるので、余計に困る。
嫌なら替えればいい。
替えたくないなら、嫌ではないのだろう。
人はそう考える。
こちらも、そう考えたことがある。
考えて、当てはまらなかった。
嫌なのに、替えたくない。
その二つが、同じ手のなかにある。
一度、自分でやってみようとしたことがある。
紙やすりを買ってきて、袋を開けずに台所の引き出しに入れた。
ひと月ほど置いて、そのまま片づけた。
開けなかった理由は、思い出せない。
第三章 夫の母
夫の母とは、うまくいっていたわけではない。
十年ちかく、必要なこと以外は話さなかった時期がある。
何がきっかけだったのかは、いまでも分からない。
分からないまま、そうなって、そうでなくなった。
最後の四年ほどは、ふつうに話していた。
ふつうに話すようになってから、包丁の話は一度も出なかった。
あの人が包丁を覚えていたかどうかも、分からない。
八年前に死んだ。
八十一だった。
葬儀のあと、台所に立って、いつもの包丁を握った。
引っかかりは、いつもどおりだった。
その日、おかしなことを思った。
これは、捨てられなくなった、と思った。
生きているうちなら、まだ捨てられた気がする。
使っています、と言うために持っている、という理由があった。
いまは、誰にも言わない。
誰にも言わないのに、持っている。
娘に一度、いい包丁だね、と言われたことがある。
もらいものなの、と答えた。
誰にもらったかは、言わなかった。
言えば、話が長くなる。
長くなる話を、包丁の前でしたくなかった。
第四章 新しい包丁
去年の春に、包丁を一本買った。
二階の売り場で、二千円もしなかった。
樹脂の柄の、軽いものだ。
握ってみた。
何ともなかった。
つるりとしていて、手のひらに何も起きなかった。
これでいいのだ、と思った。
その日から、それを使った。
よく切れた。
新しいのだから、当たり前だ。
次の日も、それを使った。
三日目の夕方に、元の包丁に戻した。
切れないから戻したのではない。
新しいほうが、よく切れていた。
戻した理由を、しばらく言葉にできなかった。
いまなら、少し言える。
握ったときに、手が探していた。
あの引っかかりを、探していた。
探して、無いので、落ち着かなかった。
二十六年かけて、手のひらのその一点が、目印になっていた。
嫌なものが、目印になっていた。
新しい包丁は、いまも引き出しに入っている。
月に一度くらい、使う。
二千円の包丁が悪いわけではない。
玉ねぎを刻むときは、そちらを使うことがある。
軽いので、数が多いときは楽だ。
楽なのに、毎日は使わない。
嫌なものを取り除いたのに、手のほうが戻りたがった。
第五章 磨いてあった
去年の秋に、いつもの研ぎに出した。
三日後に受け取って、家で紙を開いた。
柄が、白っぽくなっていた。
磨いてあった。
紙やすりをかけて、油を塗ってあった。
主人は何も言っていなかった。
払った金も、いつもと同じだった。
握ってみた。
引っかからなかった。
するりと入って、そのまま止まった。
うれしくなかった。
うれしくない、というより、どこに手を置いていいのか分からなかった。
その晩は、いつもより手元を見ながら切った。
次の日も、その次の日も、そうだった。
ひと月ほどして、また少しずつ起きてきた。
木は、そういうものらしい。
ある朝、握ったときに、引っかかった。
戻ってきた、と思った。
思ったときに、安心した。
安心したことを、誰にも言っていない。
夫にも言っていない。
言えば、では替えなければいいじゃないか、と言われる。
そのとおりなのだが、そういう話ではない。
主人は、次に行ったときも何も言わなかった。
こちらも、礼を言わなかった。
礼を言えば、また磨いてくれるかもしれない。
言わずに帰った。
あれから、一年になる。
磨く前の柄と、磨いたあとの柄を、見比べたわけではない。
見比べようがない。
同じ一本だからだ。
エピローグ
今年も、そろそろ研ぎに出す時期だ。
持っていけば、また言われるかもしれない。
柄も替えられますよ、と言われるかもしれない。
結構です、と答えるだろう。
断る理由は、いまも無い。
無いまま、断る。
嫌なものだった。
二十六年、ずっと嫌なものだった。
嫌なまま、手のほうが覚えた。
覚えたものは、嫌でなくなったわけではない。
いまでも、握るたびに、少し引っかかる。
引っかかって、そのまま切る。
切れ味は、いい。
夫の母のことは、あまり思い出さない。
思い出すとすれば、握ったときだ。
顔ではなく、手のひらのほうで思い出す。
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