うるさい、とは言えない
不快

朗読で聴く
第一章 音
五十九になった。
この家に住んで、三十年になる。
建売で、南に小さな庭がある。
寝室は二階の北側にある。
窓を開けると、隣の建物の壁が、一メートル半ほど先にある。
その壁の足元に、業務用の室外機が一台ある。
一階に入っている店のものだ。
三十年、夏の夜だけ、その室外機が鳴る。
低い音だ。
うなる、と言うのがいちばん近い。
六月の終わりごろに鳴りはじめて、九月の半ばに止まる。
冬のあいだは、何も聞こえない。
だから、忘れる。
毎年、忘れる。
そして毎年、六月の終わりに思い出す。
引っ越してきた最初の夏は、何の音か分からなかった。
工事だと思っていた。
工事なら、いつか終わる。
終わらないと分かったのは、二年目の夏だ。
店に聞きに行ったことはない。
行こうと思ったことは何度もある。
言い方を考えているうちに、九月になった。
うるさいので止めてください、とは言えない。
仕事で使っているものだからだ。
止めれば、あの店の冷蔵庫が止まる。
一度だけ、音の大きさを測ったことがある。
十年ほど前だ。
ホームセンターで、騒音計を買った。
三千八百円だった。
枕の位置に置いて、夜中に見た。
四十一だった。
夜の基準は四十五だと、あとで調べて知った。
下回っていた。
その数字を見たときのことを、よく覚えている。
安心はしなかった。
うるさい、とは言えない。
そう分かっただけだった。
騒音計は、いまも同じ引き出しに入っている。
あれから、一度も使っていない。
第二章 左の耳
寝るときは、左を下にする。
音は、右手の窓のほうから来る。
左を下にすると、左の耳が枕に埋まる。
右の耳は上を向いたままだが、それでいい。
両方ふさぐことはできないので、片方だけふさぐ。
いつからそうしているのか、覚えていない。
覚えていないくらい、少しずつそうなった。
夜中に目が覚めると、手で枕を耳に押しつける。
押しつけると、音が少し遠くなる。
遠くなるだけで、消えはしない。
消えないと分かっていて、押しつける。
耳栓は、二度買った。
一度目は、三日で耳のなかが痛くなった。
二度目は、朝の目覚ましが聞こえなくなった。
どちらも、引き出しのどこかにある。
タオルを丸めて耳にあてたこともある。
寝返りを打つと、外れた。
窓を閉め切って寝たこともある。
閉めると、音は小さくなる。
小さくなるが、代わりに暑い。
冷房を入れると、こちらの部屋の風の音がする。
その音では眠れた。
同じくらいの大きさなのに、眠れた。
自分で入れた音は、平気なのだと分かった。
朝、左の肩が痛むことがある。
去年、整形外科で診てもらった。
寝る向きの癖でしょう、と言われた。
反対を下にして寝てみてください、と言われた。
やってみたが、三日でやめた。
右を下にすると、右の耳が上を向く。
右の耳が上を向くと、音が耳のなかに入ってくる。
三十年かけて、体のほうが向きを決めていた。
肩は、その向きの代金だと思っている。
第三章 見積もり
十二年前に、二重の窓の見積もりを取った。
夫が、そうしたらどうかと言った。
業者が来て、寝室の窓を測って帰った。
背の高い、静かな話し方をする男だった。
これを入れると、ずいぶん違いますよ、と言った。
三日後に、封筒が届いた。
十八万四千円だった。
高いとは思わなかった。
出せない額でもなかった。
その年は、まとまった手当も出ていた。
でも、電話をかけなかった。
かけようと思ったことは、三度ある。
三度とも、九月になっていた。
九月になると、音が止まる。
音が止まると、電話をかける理由が消える。
理由が戻ってくるのは、次の年の六月だ。
六月になって引き出しを開けると、見積もりが古い。
古いものを持って電話をかけるのは、気が重い。
取り直せばいいのだが、取り直すには、また来てもらわないといけない。
来てもらうには、電話をかけないといけない。
そこで止まる。
毎年、同じところで止まる。
封筒は、いまも寝室の引き出しにある。
十二年、同じ場所にある。
中身は一度も出していない。
出さなくても、金額は覚えている。
第四章 慣れました
よそで話すことがある。
話すと、たいてい同じことを聞かれる。
慣れましたか、と聞かれる。
慣れました、と答える。
嘘ではない。
ただ、慣れるというのは、聞こえなくなることではなかった。
毎晩、ちゃんと聞こえる。
毎晩、ちゃんと嫌だ。
嫌だと思ったまま、眠る。
それが慣れる、ということだった。
言葉のほうが、少し違う意味を運んでしまう。
慣れました、と言うと、相手は納得した顔をする。
片づいた話として、終わる。
こちらも、そこで終わらせる。
三十年ぶん、そうしてきた。
娘は二人とも家を出た。
下の娘に一度だけ言ったら、引っ越せばいいのに、と言われた。
そうだね、と答えた。
引っ越すほどのことではない、とは言わなかった。
言うと、説明が長くなる。
夫は、聞こえないと言う。
同じ部屋で寝ているのに、聞こえないらしい。
嘘をついているのではないと思う。
この人はいつも、いびきをかいて先に眠る。
先に眠ってしまえば、その音は無い。
一度だけ、腹が立ったことがある。
夜中に起こして、いま鳴っているでしょう、と言った。
夫は起きて、しばらく黙って、ああ、と言った。
ああ、と言ったきり、また眠った。
あのときの、ああ、が、いちばんこたえた。
その音は、こちらのものだった。
第五章 一週間
去年の七月に、室外機が外された。
修理だと、店のほうから言いに来た。
一週間ほどご迷惑をおかけします、と言われた。
迷惑の意味が、こちらとは逆だった。
その晩、静かだった。
三十年ぶりの、夏の夜の静けさだった。
眠れなかった。
次の晩も、眠れなかった。
三晩目に、窓を開けてみた。
開けても、何も聞こえなかった。
土台だけが、壁の足元に残っていた。
土台を見ているうちに、これで終わりかもしれないと思った。
思ったときに、うれしくならなかった。
四晩目に、テレビをつけたまま寝てみた。
テレビの音では駄目だった。
言葉が入っているものは、駄目だった。
五晩目、六晩目、七晩目。
どれも、浅いところで何度も目が覚めた。
八日目の夕方に、業者の車が来た。
夜になって、また鳴りはじめた。
その音を聞いたとき、ほっとした。
ほっとしたことが、いちばん嫌だった。
その晩は、よく眠れた。
嫌なものが戻ってきて、よく眠れた。
そういうことが、起きる。
エピローグ
今年も、六月の終わりに鳴りはじめた。
三十一年目になる。
引き出しの封筒は、そのままにしてある。
金額は、いまでは古い。
いまなら、もっと高いだろうと思う。
思うだけで、電話はかけない。
九月まで、あと少しある。
九月になれば、また止まる。
止まれば、また忘れる。
忘れて、来年の六月に思い出す。
直せないものではない。
直せるものを、三十年、直さないできた。
うるさい、とは言えないからだ。
言えるほどうるさければ、たぶん、十二年前に直していた。
小さいものには、直す理由がいつまでも足りない。
足りないまま三十年が経つと、それは生活の形になる。
いまは、左を下にして眠る。
肩は、朝に痛む。
夏の夜には、窓の外で、低い音が鳴っている。
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