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送り先が、なくなった

先に死ぬはずだった

送り先が、なくなった

朗読で聴く

第一章 十二下

六十八になった。

弟は十二下で、去年の暮れに死んだ。五十六だった。

弟は生まれつき、耳がほとんど聞こえない。

言葉は出るが、はっきりしない言い方になる。

初めての人には、たいてい通じない。

こちらは通じる。六十年一緒にいれば、通じる。

両親は早くに死んだ。父が四十七、母が五十四。

こちらが二十六で、弟が十四のときだ。

それから、弟のことはこちらの仕事になった。

仕事という言い方は、正しくない気もする。

正しくないが、ほかの言い方を知らない。

世話をした、とも言いたくない。

世話という言葉には、上下がついてくる。

上下がついた覚えは、こちらには無い。

弟の側にあったかどうかは、聞いたことがない。

聞けばよかったと、いまは思う。

役所の書類は全部こちらが書いた。

施設との面談も、病院も、こちらが出た。

弟は工場で四十年働いた。

働けたのは、最初の三年、毎週こちらが工場へ行ったからだ。

行って、伝わっていないところを伝え直した。

伝わっていないところは、たいてい同じ場所だった。

急ぎの指示と、順番が変わったときの連絡。

その二つを、紙に書いて貼ってもらった。

紙は、いまも同じ柱に貼ってあると聞いた。

三年で行かなくてよくなった。

行かなくてよくなってからも、月に一度は行った。

何もしなくても、顔だけ出した。

顔を出しておくと、何かあったときに向こうから連絡が来る。

連絡が来る関係は、作っておかないと来ない。

四十年、それだけはやってきた。

第二章 順番

弟のほうが先に困る。

それが、四十年の前提だった。

こちらが先に死ぬ。そのあと弟が残る。

残った弟が困らないように、いろいろ用意した。

通帳を分けた。後見の手続きを調べた。

施設をいくつも見に行って、順番をつけて紙に書いた。

紙は、居間の引き出しに入れてある。

妻にも読ませた。

妻には、あなたが先に死んだらこれをやってくれ、と頼んだ。

妻は、分かった、と言った。

言い方は事務的だった。事務的でよかった。

事務的でないと、この話は続けられない。

湿った言い方をすると、二人とも先へ進めなくなる。

四十年、そこは二人で気をつけてきた。

その話を、弟にはしていない。

しても、たぶん分かる。分かるが、しなかった。

しなかった理由を、いまも説明できない。

説明できないことのほうが、四十年で増えた。

若いころは、説明できることばかりだった。

書類の書き方も、病院の回り方も、全部言葉になる。

言葉にならないところが残りはじめたのは、五十を過ぎてからだ。

残ったところを、そのままにしておけるようになった。

それを大人になったと呼ぶのかは、分からない。

第三章 月に一度

弟の部屋は、二駅先のアパートだ。

二十年、同じ部屋にいた。

月に一度、第二日曜の午後に行く。

行って、一時間ほどいて、帰る。

することは決まっている。

郵便物をまとめて見る。

払い忘れがないかを見る。

冷蔵庫を開けて、古いものを出す。

それだけだ。

話はあまりしない。

話さなくても、一時間はもつ。

もつのは、二人ともそれに慣れているからだ。

慣れというのは、退屈とは違う。

同じことを毎月やって、毎月それでいいと思える。

そう思えるまでに、たぶん十年かかった。

帰りぎわに、弟はいつも玄関まで出てくる。

出てきて、手を上げる。

こちらも上げる。

それで終わる。四十年、その形だ。

手を上げるのは、弟が先だった。

こちらが先に上げたことは、たぶん一度も無い。

先に上げると、こちらが帰りたがっているように見える。

見えるのがいやで、待っていた。

待っていたことを、弟は知らないと思う。

第四章 去年の暮れ

十二月の水曜に、施設の人から電話が来た。

弟が工場で倒れた、と言われた。

病院に着いたときには、意識が無かった。

心臓だった。三日で死んだ。

五十六だ。こちらより十二若い。

通夜の受付に立って、来た人に頭を下げた。

工場の人が十七人来た。

十七人が来ることを、こちらは知らなかった。

弟が四十年かけて作ったものを、こちらは知らなかった。

知らなかったことを、その場で知った。

一人が、弟さんは字がきれいだった、と言った。

こちらは、弟の字を書類でしか見ていない。

書類の字は、たしかに丁寧だった。

丁寧なのは、こちらに見せるためだと思っていた。

工場でも同じだったのなら、あれは弟の字そのものだ。

葬儀のあいだ、順番の話は誰もしなかった。

誰も言わないので、こちらも言わなかった。

火葬場で、妻が一度だけこちらを見た。

何か言うつもりの顔だった。

言わずに、前を向いた。

あのとき何を言おうとしたのかは、いまも聞いていない。

第五章 紙

居間の引き出しに、あの紙がある。

弟が残ったときのための紙だ。

施設の順番と、連絡先と、手続きの流れが書いてある。

四十年かけて、少しずつ足した。

いまは、一枚も使えない。

捨てればいい。

捨てればいいのだが、捨てていない。

捨てると、四十年ぶんが何だったのかという話になる。

なる、というのは正確ではない。

誰もそんな話はしない。こちらが勝手にそうなるだけだ。

妻は、あの紙のことを一度も聞かない。

聞かないのは、優しさだと思う。

思うが、聞かれたら少し楽だったかもしれない。

妻は、紙のかわりに別のことを聞いた。

来月の第二日曜、どうするの、と聞いた。

こちらは、分からない、と答えた。

妻は、そう、と言って、それきりだった。

第二日曜になると、午後が空く。

二十年、そこに用があった。

用が無くなった最初の月は、その時間に紙を読んだ。

次の月も読んだ。

三月目からは、読まずに引き出しを開けて閉めた。

開けて閉めるだけなら、やらなくてもいい。

やらなくてもいいことを、やっている。

四十年やってきたことの、いちばん薄いところだけが残った。

薄いところは、いちばん最後まで残る。

エピローグ

今月の第二日曜も、引き出しを開けた。

紙はそのままある。折り目がついている。

開けて、閉めた。

閉めてから、玄関のほうを見た。

こちらが立っていた位置も、玄関のたたきの、右寄りで決まっていた。

二十年、同じところに立った。

立つ場所が決まっている用は、無くなると場所のほうが残る。

弟が手を上げていた高さを、まだ覚えている。

こちらの肩より少し下だった。

覚えているのに、上げる相手がいない。

こちらは六十八で、まだ元気だ。

医者にも何も言われていない。

この体で、あと二十年あるかもしれない。

二十年ぶんの第二日曜が、全部空いている。

埋める用は、たぶん見つかる。

見つかるが、それは別の用だ。

別の用で埋めた午後を、同じ午後とは呼べない。

呼べないまま、来月も引き出しを開けると思う。

工場から、遺品だと言って作業帽が届いた。

名前が油性で書いてある。こちらの字だ。

四十年前に、こちらが書いた。

書いたことを忘れていた。

忘れていたものが、いちばん最後に戻ってきた。

ソウルミッション358

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