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順番は、まだ書き換えていない

先に死ぬはずだった

順番は、まだ書き換えていない

朗読で聴く

第一章 十五年

七十三になった。

妻は七十一で、去年の秋に死んだ。

こちらは十五年、心臓を病んでいる。

五十八のときに倒れて、そのまま入院した。

退院してから、薬が朝と晩になった。

医者には毎回、無理をするなと言われる。

十五年、同じことを言われ続けている。

言われ続けると、そういうものだと思うようになる。

こちらが先に逝く。

二人ともそう思っていた。

思っていた、というより、そこを土台にして生活を組んだ。

通帳の場所を教わった。

保険の証書は、仏壇の下の引き出しに入れた。

年金の切り替えの手順を、妻が役所で聞いてきた。

墓は、五年前に買った。

名義の話も、司法書士のところへ二人で行った。

どれも、こちらがいなくなったあとの段取りだ。

組むときは、暗くならなかった。

二人で笑いながら決めたことも多い。

順番が分かっていると、人は落ち着くのだと思う。

落ち着いていたのは、こちらだけではなかったと思う。

妻も、その話をするときは声が明るかった。

明るかったのは、まだ先の話だったからだ。

先の話を、先の話のうちにしておける人は、落ち着いていられる。

第二章 ノート

妻は、ノートを一冊つくった。

表紙には何も書いていない。

中は、家のことが順番に書いてある。

炊飯器の内がまは下の段。

町内会費は四月に集金。

風呂の追い焚きは、右のつまみを二回。

ガスの元栓の場所。

燃えるゴミは火曜と金曜で、朝八時まで。

どれも、こちらが知らなかったことだ。

知らなかったことを、妻は知っていた。

書いたのは、こちらが残されたときのためではない。

逆だ。

こちらがいなくなったあと、妻が困らないようにと言って書き始めた。

書いているうちに、こちらの側の項目のほうが増えた。

増えたのは、こちらが何も知らなかったからだ。

勤めていたころは、家のことを何もしなかった。

しなくても回っていた。

回っていたのは、妻が回していたからだ。

それは分かっていたつもりだった。

つもりだった、というのは、分かっていなかったということだ。

途中から、これは自分のための引き継ぎだと分かった。

分かっても、やめなかった。

やめる理由が無い。

順番は決まっていたのだから。

一度だけ、妻が言ったことがある。

私が先だったらどうするの、と言った。

冗談の言い方だった。

こちらは、そのときなんと答えたかを覚えていない。

覚えていないということは、まともに答えなかったのだと思う。

答える必要がある話だとは思っていなかった。

第三章 日曜の夜

薬は、七つに区切った箱に詰める。

朝の段と、晩の段がある。

日曜の夜に、一週間ぶんを詰める。

詰めるのは妻の役目だった。

十五年、一度もこちらがやったことがない。

やらせてもらえなかったのではない。

やろうとしなかった。

妻がやるほうが早いし、間違いがない。

台所の椅子に座って、妻が詰めるのを見ていた。

そのじゅっぷんほどが、日曜の夜の形だった。

詰めながら、妻はよく数を口に出した。

朝、晩、朝、晩、と言いながら入れていく。

こちらは、はい、と相槌を打つ。

打たなくても進むのだが、打っていた。

いま一人で詰めると、口に出さない。

出す相手がいないと、数は頭の中だけで進む。

頭の中だけで進めると、たまに一つ抜ける。

抜けたのは二度あって、どちらも木曜の朝だった。

いまは、自分で詰めている。

最初の何回かは、朝と晩を入れ違えた。

いまは間違えない。

間違えなくなるまでに、二か月かかった。

二か月で覚えられることを、十五年やらなかった。

やらなかったのは、面倒だったからではない。

やると、順番の話になるからだ。

自分で詰められるようになると、いなくなったあとの練習になる。

練習をすると、その日が近く見える。

二人とも、そこは避けていた。

避けていたことに、いま気づいた。

第四章 去年の秋

十月の木曜の夕方だった。

台所で音がして、行くと、妻が倒れていた。

救急車を呼んで、そのまま病院へ行った。

くも膜下だと言われた。

二日目の朝に死んだ。

七十一だった。

こちらは、その二日間、ずっと廊下にいた。

何もしていない。座っていただけだ。

医者の説明は、全部覚えている。

覚えているのに、あのとき何を考えていたかは思い出せない。

順番が違う、とは思わなかったと思う。

思う余裕が無かった。

思ったのは、葬儀が終わって、家に一人で入ったときだ。

玄関を開けて、電気をつけて、そこで思った。

これは、こちらがやるはずのことではなかった。

その晩、仏壇の前に座った。

線香の上げ方は、ノートに書いていない。

書いていないのは、こちらがやることではなかったからだ。

やり方は、見て覚えていた。

見て覚えていたことが、こんなに少ないとは思わなかった。

第五章 書いてある

ノートは、いまも仏壇の下にある。

葬儀の次の週に、初めて全部読んだ。

困っていることの半分は、そこに書いてあった。

書いてあるとおりにやると、たいてい解ける。

解けるたびに、少し困る。

これは、こちらに教えるために書かれたものだ。

教わったとおりにやっている。

教えた人がもういない。

その二つが、同じノートの上にある。

妻の側の段取りは、どこにも書いていない。

書く必要が無かったからだ。

妻が残るはずだったのだから、妻のことは妻が知っている。

いま必要なのは、そちらのほうだ。

妻の保険がどこにあるのかを、こちらは知らない。

年金のことも、墓の名義も、順番が逆になると全部やり直しだった。

役所と銀行を、半年かけて回った。

回りながら、何度も同じことを思った。

この半年は、本来こちらには来ないはずの半年だ。

来ないはずのものが来たときに、人は準備の話をする。

準備をしていなかったから困っている、という話にする。

準備はしていた。十五年かけて、二人でした。

しただけの準備が、全部、逆向きだっただけだ。

逆向きの準備は、準備をしていないことよりも扱いにくい。

何かがあるのに、使えない。

エピローグ

今日は日曜だ。

夕食のあと、箱を出して、一週間ぶんの薬を詰めた。

じゅっぷんほどで終わる。

終わってから、台所の椅子を見た。

こちらが座っていたほうの椅子だ。

いまは、詰めるほうの側に座っている。

椅子は二脚とも、まだそこにある。

片づけていない。

片づける理由は、たぶんある。

あるが、まだ片づけていない。

ノートも、書き足していない。

書き足すなら、こちらが残ったあとのことを書くことになる。

それは、誰に読ませるものなのかが分からない。

分からないので、書いていない。

息子が一度、そのノートを見た。

母さんはよく書いていたね、と言った。

そうだな、と答えた。

中身のことは、二人とも言わなかった。

言わなかったのは、読めば分かるからだ。

読めば分かるものを、口に出すと違うものになる。

順番だけが入れ替わって、書いてあるものは、そのままにしてある。

医者には、まだ月に一度行っている。

無理をするなと、いまも言われる。

同じ言葉なのに、聞こえ方が違う。

十五年、その言葉は妻のためのものだった。

いまは、誰のためのものなのかが分からない。

分からないまま、薬は飲んでいる。

飲まない理由が、いまのところ見つからない。

ソウルミッション358

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