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勘定は、合ってしまった

もう痛くないこと

勘定は、合ってしまった

朗読で聴く

第一章 二十二年

ハロルドは七十一になった。

二十二年前、会社の金に手をつけた。

建設資材を扱う小さな会社で、経理をひとりでやっていた。

最初は返すつもりだった。

娘の学費の払い込みが、給料日より四日早かった。

四日ぶんを立て替えて、給料日に戻した。

戻したので、何も起きなかった。

何も起きなかったので、次の年もやった。

次の年は、四日が二週間になった。

二週間が、ひと月になった。

ひと月になったときには、戻す金がもう無かった。

三年で、二万八千ドルになった。

金額を、いまでも一ドル単位で言える。

言えるのは、二十年ぶん割り算をしたからだ。

割り算をした人間は、その数を忘れない。

見つかったのは、監査ではない。

自分で言った。

言ったのは、三年目の十二月だ。

社長の部屋に入って、机の前で言った。

用意した言い方は、途中で崩れた。

崩れたまま、全部言った。

言わずに済ませる道は、まだあった。

次の監査までに半年あった。

半年あれば、隠し方はいくらでも考えられる。

考えなかったわけではない。

毎晩考えて、それでも十二月に言った。

言った理由を、いまでも説明できない。

楽になりたかったのだ、とは思わない。

言ったあと、少しも楽にならなかったからだ。

第二章 勘定

社長は、警察には言わなかった。

二十年かけて返せ、と言った。

毎月、給料から引く形にした。

金額は決まっていて、書面にした。

書面は二枚で、両方に署名した。

仕事は続けさせてもらった。

役職は無くなった。

経理からは外れて、倉庫に移った。

倉庫は、それはそれで悪くない仕事だった。

悪くないと思えるようになるまでに、五年かかった。

倉庫では、物が動いた分だけ数が合う。

合わないときは、どこかに物がある。

物は嘘をつかない。数だけが嘘をつく。

数を扱う仕事から外されたのは、正しかったと思う。

妻には話した。話さないわけにいかない。

妻は出ていかなかった。

出ていかなかった理由は、聞いていない。

聞かないほうがいいと、二十二年思ってきた。

聞けば、答えが出る。

答えが出ると、それが理由になってしまう。

理由が分かるより、分からないままのほうが、こちらには重い。

重いままにしておきたかった。

娘には話していない。

娘は、その学費で大学を出た。

いまは西の州にいて、年に二度帰ってくる。

帰ってくると、父さんは倉庫が長かったね、と言う。

そうだな、と答える。

嘘は言っていない。

嘘は言っていないが、全部は言っていない。

全部を言わないでいることに、二十二年慣れた。

慣れると、それも一つの生き方になる。

なってしまったものを、あとから戻すのは難しい。

第三章 毎朝

返している二十年のあいだ、毎朝おなじことをした。

起きて、台所に立って、湯を沸かす。

沸かしているあいだ、二分ほど、そこに立っている。

その二分で、あの日の社長の部屋を思い出す。

思い出すというより、勝手に出てくる。

出てくると、胸のあたりが締まった。

締まっている二分が過ぎると、湯が沸く。

湯が沸いたら、その日が始まる。

二十年、毎朝そうだった。

やめようとしたことは無い。

やめてはいけないと思っていた。

思っていた理由は、いま考えると単純だ。

痛いあいだは、まだ返している途中だからだ。

途中であることは、こちらの側にとって都合がよかった。

途中なら、まだ終わっていない。

終わっていないものは、判定されない。

判定されないまま、二十年立っていられる。

立っていられるうちは、悪い人間のままでいられる。

悪い人間のままでいるほうが、こちらには筋が合っていた。

第四章 最後の月

二年前の三月に、最後の引き落としがあった。

明細を見て、残高が零になっているのを確かめた。

社長はもう死んでいる。

息子が継いでいて、書面のことは知っている。

知っているが、一度も口にしたことがない。

最後の月の給料日に、その人から何も言われなかった。

言われなくてよかったと思う。

言われていたら、何かを言い返したかもしれない。

その晩、妻に、終わったと言った。

妻は、そう、と言った。

それだけだった。

それだけでよかった。

次の朝も、いつもどおり台所に立った。

湯を沸かして、二分待った。

あの日の部屋が出てきた。

出てきたが、胸は締まらなかった。

その朝は、たまたまだと思った。

寝不足だとか、そういうことだと思った。

思って、茶を飲んで、仕事に行った。

次の朝も締まらなかった。

三日目に、これはたまたまではないと分かった。

第五章 合ってしまった

その朝から、締まらない。

二年、一度も締まっていない。

思い出しはする。毎朝、勝手に出てくる。

出てくるのに、何も起きない。

最初の何日かは、そのうち戻ると思っていた。

戻らなかった。

戻らないと分かってから、困った。

困ったというのが、いちばん近い。

金は返した。書面のとおりに、一ドル残らず返した。

勘定は合っている。

合ってしまった。

合ってしまうと、こちらの側に残るものが無い。

罰というのは、終わりがあるものだ。

終わりがあるから、罰として成り立つ。

それは分かっている。

分かっているのに、終わってしまうと困る。

二十年、毎朝二分ずつ払っていたものは、書面には入っていない。

入っていないものは、返し終わりようがない。

返し終わりようがないものが、勝手に終わった。

終わったと決めたのは、こちらではない。

決めたのは、書面のほうだ。

書面には金額と回数しか書いていない。

金額と回数が尽きたら、書面はそこで終わる。

書面が終わると、こちらの二分も一緒に終わった。

二分は書面に入っていなかったはずなのに、一緒に終わった。

入っていないものが、入っていたことになる。

そのことに、二年たっても納得がいかない。

エピローグ

今朝も台所に立った。

湯を沸かして、二分待った。

社長の部屋が出てきた。机の木目まで出てくる。

胸は締まらなかった。

湯が沸いて、茶を淹れた。

その二分を、これからどうするのかを、まだ決めていない。

やめてもいい。誰も見ていない。

やめないのは、やめると何も残らないからだ。

残しておきたいのだと思う。

何を残したいのかは、うまく言えない。

悪かったと思っている。それは変わらない。

思っていることと、痛むことは、つながっていなかった。

二十二年、同じものだと思っていた。

同じものだと思っていたから、二分立っていられた。

変わらないのに、痛まない。

痛まないまま、悪かったと思いつづけることを、何と呼ぶのかを知らない。

名前が無いものを、毎朝二分やっている。

娘が今度の秋に帰ってくる。

そのときに話すかどうかを、まだ決めていない。

話すなら、いま話すのがいちばん悪い時期だと思う。

痛くなくなってから話すのは、こちらだけが軽くなる話し方だ。

痛いうちに話していれば、まだ釣り合った。

釣り合わせる機会を、二十年持っていて、使わなかった。

使わなかったものは、あとから使えない。

湯が沸く。今朝もそこで終わる。

ソウルミッション358

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