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遠回りをしなくなった

もう痛くないこと

遠回りをしなくなった

朗読で聴く

第一章 三百メートル

六十七になった。

駅から家まで、歩いて十二分ある。

まっすぐ行けば、きゅうふんで着く。

三分よけいにかかるのは、途中で一本、道を折れるからだ。

折れると三百メートルほど遠回りになる。

その折れ方を、十六年やっていた。

まっすぐの道の途中に、白い建物がある。

二階建てで、外壁が白い。

いまは学習塾が入っている。

十六年前は、病院だった。

個人の病院で、内科と小児科をやっていた。

息子は、そこにいた。

三日いて、そこから運ばれて、次の病院で死んだ。

六歳だった。

病名は、あとで分かった。

最初の三日で分かるものではなかった、と説明された。

説明したのは、次の病院の医者だった。

白い建物の医者ではない。

白い建物の医者には、あれきり会っていない。

会って何かを言いたいわけでもない。

言いたいことが無いのに、前を通れない。

そこが、自分でもうまく説明できないところだった。

その説明は、たぶん本当だ。

本当だと思っている。

思っているのに、十六年、その前を通らなかった。

通らない理由を、人に説明したことは無い。

説明する場面が来ない。

道の選び方は、誰にも見られていない。

見られていないことを、十六年やり続けられる。

人に見られることなら、途中でやめていたかもしれない。

第二章 折れる

折れる場所は、郵便局のかどだ。

かどに来ると、体が右に行く。

考えてから曲がるのではない。

曲がってから、曲がったことに気づく年もあった。

最初の二、三年は、曲がるときに息を止めていた。

息を止めていることに気づいたのは、四年目の冬だ。

寒い日で、白い息がかどの手前で切れていた。

切れているのを見て、止めていると分かった。

止めるのをやめたのは、その次の年だったと思う。

やめようと決めた日は無い。

いつのまにか、息は続くようになっていた。

息が続くようになっても、足は右に行った。

体は、いくつもの層でできている。

上の層から順に、ゆっくり剥がれていく。

そのうち止めなくなった。

止めなくなっても、曲がってはいた。

妻とは、この道の話をしたことがない。

妻も同じ駅を使う。

妻がどの道を通っているかを、聞いたことがない。

聞かないのは、聞くとこちらの道の話になるからだ。

こちらの道の話になると、十六年の話になる。

十六年の話は、家では一度もしていない。

命日には二人で墓に行く。

行って、水をかけて、帰る。

帰り道は、駅から二人でまっすぐ歩く。

その日だけは、白い建物の前を通る。

二人とも、何も言わずに通る。

年に一度は通れて、あとの三百六十四日は通れない。

そのことに理屈をつけようとして、やめた。

年に一度は、隣に妻がいる。

いると通れる。

いないと通れない。

それだけのことかもしれない。

それだけのことだとしても、十六年は十六年だ。

第三章 工事

去年の春に、郵便局の前が工事になった。

水道の入れ替えで、二か月ほど通行止めになった。

迂回の看板が出ていて、まっすぐ行くしかなくなった。

初日は、駅からタクシーに乗った。

二日目は、一つ手前の駅で降りて、遠回りをして帰った。

三日目に、疲れた。

疲れた、というのがいちばん近い。

覚悟をしたのではない。

もう一駅ぶん歩くほうが、いやになっただけだ。

それで、まっすぐ歩いた。

白い建物の前を通った。

何も起きなかった。

足も止まらなかった。

通り過ぎてから、通ったことに気づいた。

気づいたのは、次のかどまで来てからだった。

そこで立ち止まって、後ろを見た。

建物は、白いまま、そこにあった。

白いまま、そこにあるだけだった。

こわかったのは、建物ではなかったのだと思う。

建物は、ただの白い箱だ。

こわかったのは、前を通ったときに自分がどうなるか、のほうだ。

どうにもならなかった。

どうにもならなかったことが、いちばん静かに効いた。

第四章 白い建物

次の日も、まっすぐ歩いた。

その次の日も歩いた。

二日目に、建物のほうを見た。

外壁は塗り替えられていた。

窓の枠が、白から茶色になっている。

入口の位置も違う。

中は塾で、夕方には自転車が並んでいる。

病院だったころの形は、二階の窓の並びにしか残っていない。

その並びを見て、ここだったと思った。

思っただけだった。

何も起きなかった。

立ち止まって、しばらく見ていた。

見ていられることに、あとで驚いた。

驚いたのは、その晩、風呂に入ってからだ。

風呂で、今日は立ち止まったのだと思い出した。

思い出して、初めて、これは前と違うと分かった。

湯に浸かって、十六年のことを考えた。

毎日三分。年に千分。十六年で、およそ二百七十時間。

その時間の使い道を、いま計算しても仕方がない。

仕方がないのに、湯のなかで計算した。

計算して、それからやめた。

第五章 工事が終わる

二か月で工事は終わった。

郵便局の前は、また通れるようになった。

通れるようになった日、駅を出て、かどまで来た。

体は右に行かなかった。

まっすぐ歩いた。

それから一年、まっすぐ歩いている。

三分早く着く。

早く着いたぶんで何かをしているわけではない。

台所に座って、湯が沸くのを待っている。

その三分を、うまく使えていない。

十六年ぶんの三分が、ぜんぶ戻ってきたわけでもない。

戻ってきたのは、これからの三分だけだ。

妻には言っていない。

まっすぐ帰るようになったことも、言っていない。

三分早く帰るようになったことに、妻は気づいていると思う。

気づいていて、聞かない。

この家は、そういう聞き方をしない家だ。

聞かないのは、優しさとも違う。

聞けば、答えなければならない。

答えれば、どちらかが泣くかもしれない。

泣くのが困るのではない。

泣いたあとに、また明日が来るのが分かっているだけだ。

エピローグ

今日も、まっすぐ帰った。

白い建物の前で、少しだけ歩く速さが落ちる。

落ちるだけで、止まらない。

落ちていることに気づいたのは、最近だ。

速さが落ちるのは、二階の窓の並びのところだ。

ほかの窓では落ちない。

体は、まだあの並びを覚えている。

息子のことは、毎日考えている。

毎日考えているのに、この建物の前では何も起きない。

考えることと、痛むことは、別のものだったらしい。

十六年、同じものだと思っていた。

同じものだと思っていたから、よけていた。

よけていた十六年を、無駄だったとは思わない。

思わないが、いま思い返しても何も起きない。

息子の顔は、写真でしか思い出せなくなった。

それは前からで、痛みとは関係がない。

関係のないものが、同じ時期にいくつも起きる。

その、何も起きないところが、いちばん静かだ。

静かなのが、いいことなのかは分からない。

分からないまま、明日もまっすぐ帰る。

帰って、鍵を開けて、上着を掛ける。

妻が台所にいる。

おかえり、と言われる。

ただいま、と答える。

その順番は、十六年変わっていない。

変わったのは、その前の三分だけだ。

その三分のあいだ、白い箱の前を通っている。

通りながら、何も起きない。

起きないまま、家に着く。

それを、これから何年か続けるのだと思う。

ソウルミッション358

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