何も起きなかった
もう痛くないこと

朗読で聴く
第一章 一度だけ
五十九になった。
姉は二つ年上で、隣の県にいる。
三十一年前、母が倒れて三年寝ついた。
こちらは同じ市内にいた。姉は隣の県にいた。
だから、通ったのはこちらだった。
週に四日か五日、勤めの帰りに寄った。
姉は月に一度来た。来ると一日いて、帰った。
どちらが悪いという話ではない。
距離が違えば、そうなる。
三年のあいだに、勤めを一度断った。
昇進の話だった。転勤がついていた。
断った理由は、母のことだと言わなかった。
言うと、断ったことが誰かのせいになる。
誰かのせいにすると、あとで返してもらいたくなる。
返してもらう話にしたくなかった。
母が死んだあと、家のことを片づけていて、姉が一度だけ言った。
あなたは何もしなかった、と言った。
言った場面のことは、いまでもそのまま出てくる。
台所の、流しの前だった。
こちらは布巾を持っていた。
姉は、母の湯呑みを新聞紙にくるんでいた。
言われて、返さなかった。
返さなかったのは、言い返す言葉が出なかったからではない。
出たら止まらないと分かったからだ。
それきり、その話は一度も出ていない。
姉も、あれを言ったことを覚えていないかもしれない。
覚えていない可能性のほうが、たぶん高い。
人は、一度だけ言ったことを覚えていない。
二度言えば覚えている。
一度だけというのは、そういう言い方だ。
言うほうは一度で、聞くほうは三十一年になる。
その差は、どちらのせいでもない。
せいでないものが、いちばん長く残る。
第二章 二度
その年から、寝る前に戸締まりを二度確かめるようになった。
台所の引き戸に、錠がある。
落として、動かないことを手で確かめる。
そこまでで足りている。
足りているのに、電気を消してから、もう一度戻る。
戻って、同じ錠に手をかける。
動かない。それを確かめて、寝る。
三十一年、一日も欠かしていない。
旅行に出た夜も、宿の戸を二度確かめた。
癖だと分かっている。
分かっているが、やめるとその晩は落ち着かない。
落ち着かないので、やめていない。
姉のこととつながっているのかは、分からない。
始まったのが同じ年だ、というだけだ。
同じ年に始まったものを、関係があると呼ぶのかどうかを知らない。
夫は、最初の何年かは何か言った。
もう寝よう、と言った。
いまは何も言わない。
言わなくなった時期も、覚えていない。
三十一年あると、始まりも終わりも分からなくなる。
第三章 電話
姉のことを考えると、みぞおちの奥が固くなった。
考えるのは、年に何度かだ。
法事のとき。年賀状が来たとき。名簿に名前を見たとき。
固くなるのは一瞬で、そのあとしばらく息が浅くなる。
三十一年、それが続いた。
続いていることに慣れて、痛いとも思わなくなった。
思わなくなっても、固くはなった。
去年の秋に、姉から電話が来た。
法事の日取りの相談だった。
用事の話だけをして、すぐに切った。
切ってから、湯を沸かした。
沸かしているあいだに、気がついた。
何も起きていない。
みぞおちが固くならなかった。
息も浅くなっていない。
湯が沸くまで、そこに立っていた。
湯が沸いて、茶を淹れて、椅子に座った。
座ってからも、まだそのことを考えていた。
いつからだろう、と考えた。
去年のいつかではない。
もっと前かもしれない。
固くならなくなった日が、どこかにあったはずだ。
その日のことは、何も覚えていない。
痛くなくなった日には、何も起きないから覚えていない。
痛かった日のことは、台所の流しの前まで覚えているのに。
第四章 名前
確かめたくなって、姉の名前を声に出した。
誰もいない台所で、一度だけ言った。
何も起きなかった。
もう一度言った。やはり何も起きなかった。
三度は言わなかった。
三度目でも同じだろうと思ったからだ。
思ったとおりなら、それでいい。
違っていたら、確かめないほうがいい。
三十一年で初めて、名前が名前だけになった。
うれしくはなかった。
悲しくもなかった。
いちばん近いのは、手ざわりが変わった、という感じだ。
ずっと持っていた石が、ある日、軽くなっている。
軽くなったのは石ではなく、こちらの手のほうだ。
石は同じところにある。
同じところにあるのに、持ち上げても何も感じない。
治ったのとは違うと思う。
治るというのは、何かが元に戻ることだ。
元に戻ってはいない。
言われたことは、いまも同じように思い出せる。
思い出せるのに、何も起きない。
起きないだけで、無くなってはいない。
無くならないものが、痛まなくなっただけだ。
第五章 言えない
このことを、姉には言えない。
言うとしたら、こうなる。
あのとき言われたことを三十一年ひきずっていたが、去年、痛くなくなった。
これは、痛くなくなった話ではない。
三十一年痛かった、という話になる。
痛かったことを先に言わないと、痛くなくなったことは言えない。
言えば、姉は覚えていないと言うだろう。
覚えていないと言われたら、こちらの三十一年はどこにも置けなくなる。
だから言わない。
言わないと決めたわけではない。
言う場面が、たぶん来ない。
法事では日取りの話をする。
日取りの話のあとに、続けられる話ではない。
夫にも言っていない。
夫は、姉との経緯をだいたい知っている。
知っているぶん、いま言うと、よかったね、になる。
よかったね、で終わるのが、少しちがう。
何がちがうのかは、うまく言えない。
たぶん、終わってほしくなかったのだと思う。
痛いのが好きだったわけではない。
痛いあいだは、あのときのことが、まだ続いていた。
続いているものは、いつかかたがつくかもしれない。
痛くなくなると、かたをつける相手がいなくなる。
いなくなってから、そのことに気づいた。
姉は元気にしている。
電話の声は、三十一年前と同じ調子だった。
同じ調子だったから、こちらも気づけたのだと思う。
エピローグ
今夜も、戸締まりを二度確かめた。
一度目で足りている。
電気を消して、もう一度戻った。
錠は動かなかった。
三十一年、一度も動いたことがない。
動くはずがない。落としてあるのだから。
それでも、動かないことを見ないと寝られない。
確かめながら、これはもう要らないのだろうかと考えた。
考えて、明日もやると思った。
痛くなくなったことと、この癖は、別のところにある。
別のところにあると、去年から分かった。
始まりは同じ年だったのに、片方だけが先に終わった。
終わったほうは、何も残していない。
残っているのは、終わらなかったほうだけだ。
どちらかが残るなら、残ってほしかったのは逆のほうだ。
痛みが残って、癖が消えるほうだった。
痛みが残っていれば、まだ姉との話だった。
癖だけが残ると、これはもう自分ひとりの話になる。
三十一年かけて、自分ひとりの話になった。
錠は冷たい。冬でも夏でも、手をかけた最初の一瞬だけ冷たい。
その冷たさだけは、三十一年変わっていない。
錠に手をかけて、動かないことを確かめて、電気を消す。
それだけのことを、今夜もした。
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