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変えなかった道順

代わりがいること

変えなかった道順

朗読で聴く

第一章 配属

ロイは六十六になった。

去年の秋に、郡の郵便配達を辞めた。

三十年やった。

入ったのは二十四のときだ。

入れたのは、前に配達をしていた人が死んだからだった。

冬の道で、車が横に流れて、木に当たった。

そのことは、採用の面接で聞かされた。

欠員が出た理由として、事務的に聞かされた。

名前も聞いた。ハウイーという人だった。

聞いたのは、その一度だけだ。

三十年で、それ以上のことは知らない。

知ろうとしなかった、と言うほうが正しい。

最初の週に、局の人が車の鍵を渡して言った。

ハウイーの車だ、と言った。

悪気は無かったと思う。

その人にとっては、車の呼び名だった。

こちらは、はい、と答えた。

答えてから、はいでよかったのかを考えた。

考えているうちに、次の日になった。

次の日には、もう聞ける形ではなくなっていた。

聞ける形というのは、たぶん最初の三日しか無い。

三日を過ぎると、知らないことが前提になる。

前提になったものを崩すには、理由が要る。

理由が用意できないまま、三十年たった。

車は八年目に替わった。

替わったとき、少しほっとした。

ほっとしたことを、いまでも覚えている。

第二章 道順

配達の道順は、紙で渡された。

手で引いた線が、郡の地図の上に載っていた。

線は細かった。

同じ道を二度通らないように組んであった。

橋を渡る回数が、いちばん少なくなるように組んであった。

冬に日陰になる坂を、朝のうちに越えるように組んであった。

どれも、走ってみるまで意味が分からない。

走ると、一つずつ意味が出てくる。

意味が出てくるたびに、組んだ人の手が見える。

見えるのに、顔は無い。

その道順は、ハウイーが二十二年かけて組んだものだった。

十年目に、局の誰かが地図を見てそう言った。

これはハウイーが引いた線だ、と言った。

その人も、それ以上は言わなかった。

三十年で、ハウイーの名前が出たのは、その二度だけだ。

道順は、一度も変えなかった。

変える理由が無かったからだ。

よくできた道順だった。

よくできているものを、なぜ変えるのか。

新しい家が三軒できたときに、そこだけ足した。

足したのは、線の外側だ。

線そのものには、指を入れていない。

三十年で、道が二本つけ替えになった。

そのときも、線の形はできるだけ残した。

残したほうが早いからだと、局には説明した。

説明は本当だった。

本当だが、それだけではなかった。

変えると、どこまでが自分のものになるのかが分からなくなる。

分からなくなるのが、いやだった。

第三章 曲がり角

事故のあった曲がり角は、道順の中にある。

外すことはできない。外せば、橋を二度渡ることになる。

だから三十年、毎日そこを通った。

毎日は、何も思わずに通る。

思わずに通れるようになるまで、二年かかった。

最初の年は、その曲がり角の手前で息を止めていた。

止めていることに気づいたのは、半年たってからだ。

気づいてからも、しばらく止まらなかった。

年に一度だけ、速度を落とす。

命日は、局の古い記録で知った。

誰にも聞かずに知る方法は、それしか無かった。

落とすのは、少しだけだ。

止まったことは、三十年で一度も無い。

止まると、そこで何かが始まる気がした。

始めてしまうと、終わらせ方が分からない。

だから落として、そのまま通った。

三十回、同じことをした。

同じことをしているうちに、それが道順の一部になった。

道順に、速度を落とす場所が一つある。

地図には書いていない。

書いていないものを、三十年守っていた。

守っていた、というのも少し違う。

守るというのは、誰かと約束したときに使う言葉だ。

約束はしていない。

した相手がいない。

いない相手とのあいだにあるものを、何と呼ぶのかを知らない。

呼び名が無いので、癖ということにしている。

第四章 あなたの道順

辞める前の月に、局長に呼ばれた。

若い局長で、ハウイーのことは知らない。

あなたの道順を、次の人に渡します、と言った。

あなたの道順、と言った。

その言葉を聞いたのは、三十年で初めてだった。

初めてなのに、直せなかった。

これは自分が組んだものではありません、と言えばよかった。

言えば、二十二年のほうの話になる。

二十二年の話をするには、ハウイーのことを話すことになる。

話すには、こちらが知らなすぎた。

三十年、聞かなかったせいで、話せることが何も無い。

だから、はい、と答えた。

最初の週と同じ答え方だった。

三十年かけて、同じところに戻った。

あなたの道順、と呼ばれたときには、もう返す先が無かった。

返す先は、三十年前に死んでいる。

その晩、妻にその話をした。

あなたの道順って言われた、とだけ言った。

妻は、そうね、と言った。

三十年やったんだから、と言った。

それは正しい。

正しいのに、こちらが言いたかったことではなかった。

言いたかったことを、こちらもうまく持っていない。

持っていないものは、渡せない。

妻は、それきり聞かなかった。

聞かないのが、この家のやり方だ。

三十年、こちらもそうしてきた。

第五章 次の人

引き継ぎは二週間あった。

次の人は二十九の女で、覚えが早かった。

助手席で、線を指でたどりながら順番を説明した。

説明しながら、同じことを二度思った。

一度目は、この線は自分のものではないということ。

二度目は、それを言う場面が来ないということだった。

曲がり角のところで、少しだけ速度を落とした。

癖だから落ちた。

その人は、何も聞かなかった。

聞かれていたら、答えたかもしれない。

聞かれなかったので、言わなかった。

三十年前に、自分が聞かなかったのと同じだ。

同じことが、もう一度、同じ形で起きた。

起きたことに気づいたのは、車を降りてからだ。

降りてから、助手席のドアをしばらく見ていた。

あの人は、これから三十年その線を走るのかもしれない。

走るあいだ、こちらの名前を一度か二度聞くのかもしれない。

聞いても、それ以上は知らないままだろう。

知らないままでも、線は正しく回る。

正しく回るように組んであるからだ。

組んだ人のことは、そこには入っていない。

エピローグ

今年の命日に、その曲がり角まで車で行った。

配達はもうしていない。

行く用は、何も無い。

道順のとおりに走って、その曲がり角に来た。

速度を落とした。

止まらなかった。

三十一回目も、同じにした。

通り過ぎてから、ミラーを見た。

かどは、いつもと同じ形をしていた。

あの人が二十二年見たかどで、こちらが三十年見たかどだ。

同じものを見ていたことだけは、確かだ。

それ以外に、共通のものは何も無い。

名前と、車と、線と、かど。

持っていたものは、全部その人のものだった。

自分のものだったのは、落とした速度だけだ。

三十年ぶんの速度が、地図の外にある。

外にあるものは、次の人には渡らない。

渡らないほうがいい、とも思う。

渡してしまえば、あの人も落とすことになる。

落とす理由を知らないまま、落とすことになる。

それは、こちらが三十年やってきたことだ。

もうひとりぶん増やす必要は無い。

それも、地図には書いていない。

ソウルミッション358

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