あなたの魂のテーマを探す に戻る

爪は、切ってあった

代わりがいること

爪は、切ってあった

朗読で聴く

第一章 土曜

五十八になった。

母は八十六で、二年前から施設にいる。

その前の十年は、家で見ていた。

十年というのは、あとから数えて十年だった。

始めた日のことは、はっきり覚えていない。

覚えていないくらい、少しずつ始まった。

最初は、通いだった。

週に二度が三度になり、三度が毎日になった。

毎日になった月のことは、覚えている。

覚えているのは、勤めを短くしたからだ。

短くしたぶんの給料の額は、いまでも言える。

言えるのに、そのことを人に言ったことは無い。

施設に入れると決めたのは、こちらだ。

兄は遠くにいて、電話で、そうしたほうがいいと言った。

言い方に迷いは無かった。

迷ったのはこちらだけで、迷ったぶんだけ時間がかかった。

入所の日、母は何も言わなかった。

部屋に入って、窓のほうを見て、それだけだった。

怒られたほうが楽だったと思う。

帰りの車で、兄に電話をした。

落ち着いていた、と言った。

兄は、よかった、と言った。

よかったのは本当だ。

本当なのに、電話を切ってからしばらく動けなかった。

いまは、毎週土曜の午後に行く。

二年で、休んだのは二回だけだ。

行かない土曜は、一日じゅう落ち着かない。

落ち着かないので、行くほうが楽だ。

楽だから行っている、と言うと、少し違う。

違うのだが、そう言ったほうが説明が短い。

説明を短くする癖は、十年でついた。

長く話すと、相手が困る顔をする。

困る顔をされると、こちらが謝ることになる。

謝る話ではないので、短くするようになった。

第二章 上手い

施設の人たちは、上手い。

これは、皮肉ではない。

起こし方が上手い。

母は肩から先に起こすと痛がるのに、あの人たちは腰から起こす。

こちらは十年かけて、肩から起こすのをやめられなかった。

やめられなかったのではない。

痛がるのは寝起きだからだと思っていた。

思っていたので、直すところだと思っていなかった。

食べさせ方も上手い。

匙を置く位置が、母の目の高さより下にある。

下にあると、母は自分から口を開ける。

こちらは口元まで運んでいた。

運ぶと、母は待つようになる。

待つようになると、自分では開けなくなる。

十年やって、そのことに気づかなかった。

気づかなかったのは、母が何も言わなかったからだ。

母は、こちらには言わない。

声のかけ方も違う。

あの人たちは、母の名前を呼んでから用件を言う。

こちらは用件から言っていた。

言われてみれば、そのほうがいい。

言われないと分からなかった。

風呂の入れ方も、こちらは長かった。

長いほうが丁寧だと思っていた。

母は途中から冷えて、そのぶん夜に咳をしていた。

咳の理由を、こちらは季節だと思っていた。

母は、職員に笑う。

こちらには笑わない。

こちらには、笑う必要が無いのだと思う。

そう思うことにしている。

職員は四人で回している。

同じ人が毎回いるわけではない。

誰が入っても、母の扱いは同じだ。

同じであることが、いちばんこたえる。

こちらは十年やって、日によって違った。

疲れている日は、声が短くなった。

母は、その日の声を聞き分けていたと思う。

聞き分けても、何も言わなかった。

第三章 爪

爪だけは、自分が切る。

二年前の最初の土曜に、そう決めた。

決めたというより、そのとき手が動いた。

つめきりは家から持ってきたものを、母の棚に置いてある。

職員に、こちらでやりますよと言われたことが二度ある。

二度とも、いえ、と答えた。

断る理由を聞かれたことは無い。

聞かれていたら、うまく答えられなかった。

母の爪は、薄くて割れやすい。

左手の親指だけ、丸みが強い。

その指は、いちばん最後に切る。

切りながら、母の手を持つ。

持つのは、切るために持っている。

持つために持っているのではない。

その順番は、自分の中でだけ決まっている。

切り終わると、母は手を引く。

引くのが早いか遅いかで、その日の調子が分かる。

分かるのは、二年やったからだ。

二年で分かるようになったことは、それくらいだ。

切っているあいだ、母は黙っている。

黙っているが、眠ってはいない。

目は窓のほうを向いている。

こちらの手元は見ない。

見ないのは、任せているからだと思っている。

思っているだけで、聞いたことは無い。

聞けば、そうでもないと言われるかもしれない。

爪の切り方を、母から教わったことがある。

子どものころ、寝る前に切ってもらった。

深く切ると痛いから、白いところを少し残す。

残す幅は、母の指で決まっていた。

いま自分が残している幅も、たぶんその幅だ。

確かめようがないので、たぶんとしか言えない。

第四章 二週間

去年の冬に、風邪をひいた。

熱は三日で下がったが、咳が残った。

施設は、咳のある人を入れない。

当たり前のことで、こちらもそう思う。

二週間、行けなかった。

電話では、変わりありませんと言われた。

三週目の土曜に、行った。

母は、いつもの椅子に座っていた。

顔を見て、手を見た。

爪は、切ってあった。

きれいに切ってあった。

こちらより短く、角が丸くしてあった。

左手の親指も、ちゃんと丸みに沿って切ってあった。

しばらく、その手を見ていた。

職員が来て、伸びていたので切りました、と言った。

言い方は、報告の言い方だった。

悪いことをしたとは思っていない言い方だった。

思っていないのが正しい。

伸びた爪は、切るものだ。

こちらが黙っていたので、職員はもう一度言った。

次からは連絡します、と言った。

いえ、と答えた。

答えてから、何にいえと言ったのか分からなくなった。

連絡が要らないのではない。

切ってもらって困るのでもない。

困っていないのに、いえ、が先に出た。

第五章 切るもの

その日から、切るものが無い週がある。

二週間ぶん切ってあると、次の土曜には短いままだ。

それでもつめきりを出す。

出して、母の手を持つ。

持ってから、切るところが無いことを確かめる。

確かめてから、少しだけ切る。

切らなくていいところを、角のほうだけ切る。

深爪にならない程度に、白いところの端を落とす。

母は何も言わない。

職員も、何も言わない。

見られている気はしない。

誰も見ていないのだと思う。

誰も見ていないのに、やめられない。

やめると、土曜に行く用が無くなる。

用が無くても行けばいい、というのは分かる。

分かるのだが、手が持つものを探す。

探して、つめきりに行き当たる。

二年前に自分で置いたものに、毎週行き当たっている。

置いたときは、こうなるとは思っていなかった。

最後に残るものだとも思っていなかった。

最後に残るものが、いちばん小さいものだった。

小さいから残ったのかもしれない。

大きいものは、先に渡してしまった。

エピローグ

今週の土曜も行った。

爪は短かった。先週、切りすぎたからだ。

持った手は、あたたかかった。

切るものが無いので、しばらく持っていた。

持っているだけの時間は、二年で初めてだった。

母は手を引かなかった。

引かないまま、窓のほうを見ていた。

こちらも、同じほうを見た。

何も話さずに、十五分ほどそうしていた。

帰りに、つめきりを棚に戻した。

戻すときに、置き場所が、少しずれていることに気づいた。

こちらが置く場所ではないところに、置かれていた。

直さずに、そのままにした。

直すと、こちらの場所が正しいことになる。

正しいかどうかは、もう分からない。

帰り道で、切った爪のことを考えた。

あの日、職員が切った爪は、こちらが切るより上手だった。

上手だったと認めるのに、半年かかった。

半年かけて認めても、何も変わらない。

次の土曜も、つめきりを出す。

出すことだけは、まだこちらの手がやっている。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所