三日で、覚えられた
代わりがいること

朗読で聴く
第一章 三日
六十一で、工場を辞めた。
町の外れの、従業員が十四人の工場だった。
三十八年、同じ一台のフライス盤の前に立っていた。
入った年に配属されて、そのまま動かなかった。
動かなかったのは、動かす必要が無かったからだ。
その機械を回せるのは、長いあいだ、自分だけだった。
辞めることは、一年前から決まっていた。
だから引き継ぎの段取りも、一年前から考えていた。
どの順で教えるか。どこでつまずくか。
つまずいたときに、何と言えば手が止まらないか。
考えていた時間のほうが、実際にかかった時間より長い。
引き継いだのは、二十六の男だった。
三年目で、手は悪くない。
初日に機械の前に立たせて、順番を説明した。
二日目に材料を変えて、送りの落とし方を見せた。
三日目に一人でやらせて、出てきたものを測った。
寸法は出ていた。
こちらが三十八年やってきたものと、区別がつかなかった。
四日目に見せるつもりだったことは、まだ半分残っていた。
残っていたが、見せる場面が来なかった。
それで、引き継ぎは終わった。
三日だった。
工場長は、三日目の夕方に来て、もういいだろう、と言った。
言い方に、含みは無かった。
済んだことを済んだと言っただけの言い方だった。
こちらも、そうですね、と答えた。
答えてから、四日目に見せるつもりだったことを思い出した。
思い出したが、言わなかった。
言えば、要らないものを要ると言うことになる。
第二章 ノート
引き継ぎのために、ノートを三冊書いた。
辞めると決まった年の春から、夜に少しずつ書いた。
材料ごとの送りの落とし方を書いた。
音が変わる手前の、変わり方を書いた。
刃を替える時期の見分け方を書いた。
自分でも、言葉にするのは初めてだった。
三十八年やってきたことなのに、書き出すと手が止まった。
止まったところは、体でやっていて、頭では持っていないところだった。
書いてみると、意外と少なかった。
三十八年が、三冊で終わった。
少ないのが不安で、余白を埋めるように書き足した。
書き足したところは、あとで読むと余計だった。
ノートは、辞める日に事務所の棚に置いた。
置くときに、背をそろえた。
そろえたのは、誰かが抜き出す前提だったからだ。
抜き出すときに、順番が分かるようにした。
表紙は無地で、鉛筆で通し番号だけ入れた。
一、二、三と入れた。
番号を入れるのは、三冊がひと組だという意味だ。
去年の暮れに、用があって工場に寄った。
棚を見た。
三冊は、置いたときと同じ向きで、同じ順で立っていた。
背の上に、埃が線になって積もっていた。
積もる厚さで、だいたいの時間が分かる。
開かれていない、と分かる厚さだった。
誰も悪くない。
開かなくても回っているのだから、開く理由が無い。
理由の無いことを、人はしない。
こちらも、三十八年、理由のあることしかしていない。
それは分かる。
分かるのに、棚の前から動くのに少しかかった。
第三章 ノギス
辞めてから、毎朝五時四十分に目が覚める。
働いていたころと同じ時刻だ。
目覚ましは、辞めた日に止めた。
止めても、同じ時刻に目が開く。
起きて、湯を沸かして、茶を淹れる。
妻が起きてくるまで、一時間ある。
その一時間で、歩きに出るようになった。
出るときに、上着のポケットにノギスを入れる。
工場で三十八年、腰に下げていたものだ。
持ち出したのではない。自分で買ったものだ。
歩いているあいだ、測るものは無い。
一度も出さずに帰ってくる。
帰って、上着を掛けて、ポケットに入れたままにする。
次の朝、また入っている。
入れ直す必要が無いので、入れ直していない。
妻に、それ何に使うのと聞かれた。
使わない、と答えた。
それきり聞かれていない。
聞かれないのは、答えが要らない質問だったからだと思う。
ノギスは、百分の五ミリまで読める。
三十八年、その目盛りを見てきた。
いまは、閉じたままの手応えしか残っていない。
閉じるときに、最後のところで少し重くなる。
その重さは、新しいものには無い。
使ったぶんだけ出る重さだ。
それだけは、代わりがきかないのだと思う。
思ってから、道具の話をしていることに気づいた。
第四章 音
春に、工場の前を通った。
用は無かった。歩く道を、その日だけ変えた。
外から中は見えない。
音だけが、外に出ている。
立ち止まって、聞いた。
自分のときより、回転が速かった。
速いのに、音が乱れていない。
乱れていないということは、ちゃんと削れているということだ。
自分は、その回転では回さなかった。
落として回すのが正しいと思っていた。
思っていたのではなく、そう習った。
習った相手は、もう死んでいる。
習ったとおりにやって、三十八年、不良を出していない。
だから、間違ってはいなかった。
間違ってはいなかったが、それでなくてもよかった。
その二つは、ならべて置けない。
ならべて置こうとすると、片方が薄くなる。
薄くなるのは、たいてい古いほうだ。
置けないので、道をもとに戻した。
その日から、工場の前の道を歩いていない。
通らないと決めたわけではない。
決めていないので、いつでも通れる。
いつでも通れるのに、半年、歩いていない。
第五章 同じもの
考えていることを、うまく言えない。
言えないなりに、いちばん近いのはこれだ。
自分がいなくなって、困ったことが何も起きなかった。
困ったことが起きないのは、いいことだ。
いいことなのに、こちらは困っている。
困っている理由が、自分でも筋が通らない。
工場が回らなくなればよかった、とは思っていない。
本当に思っていない。
思っていないのに、回っているのが薄い。
三十八年は、そこにあった。
あったものが、無かったことになったわけでもない。
ただ、続きが要らなかった。
要らなかったものを、三十八年やっていた。
やっていたことは間違いではない。
間違いではないが、代わりがきいた。
代わりがきくことと、無駄だったことは違う。
違うと分かっているのに、夜になると同じところに戻る。
戻る場所は、いつも三日目の夕方だ。
出てきたものを測って、寸法が出ていた、あの手のところに戻る。
あのとき、こちらは、よかった、と言った。
言葉としては合っていた。
合っていたが、口から出るまでに一拍あった。
その一拍を、向こうは気づいていない。
気づかれていないことのほうが、あとで効いてきた。
妻には、いいひとに渡せた、と言った。
嘘ではない。
嘘ではないところだけを話すのは、三十八年の癖だ。
エピローグ
今朝も五時四十分に目が覚めた。
湯を沸かして、茶を淹れて、上着を着た。
ポケットに、ノギスが入っている。
入れた覚えは無い。入れたままだからだ。
歩きながら、一度だけ出してみた。
何も測らずに、閉じて、戻した。
閉じるときの音は、三十八年と同じ音だった。
道具は、持ち主が変わっても同じ音を出す。
同じ音を出すから、道具なのだと思う。
自分も、たぶんそういうものだった。
そう考えると、少し楽になる。
楽になるのが、いいことなのかは分からない。
分からないまま、明日も五時四十分に目が覚める。
目が覚めて、測るものが無いまま、歩きに出る。
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