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何のことかは、書いていない

謝られたこと

何のことかは、書いていない

朗読で聴く

第一章 封

都築は六十一になった。

父が死んで一年たつ。

九十二だった。長く患ってはいない。

最後の三年は施設にいた。都築は月に二度、顔を出していた。

行っても、天気の話をして帰る。

込み入った話はしなかった。

しないまま終わった。

込み入った話をしない親子は、たぶん多い。

多いからといって、あとで困らないわけではない。

困るのは、片方がいなくなってからだ。

一周忌の前に、実家の箪笥を片づけた。

いちばん下の引き出しの奥に、封筒が一つあった。

白い封筒で、封がしてあった。

表に、都築の名前が書いてあった。

父の字だった。

手が震えるようになる前の字なので、少なくとも五年より前に書かれたものだ。

いつ引き出しに入れたのかは分からない。

渡すつもりだったのか、渡さないつもりだったのかも分からない。

渡すつもりなら、封をして箪笥の奥に入れる必要は無い。

渡さないつもりなら、宛名を書く必要が無い。

どちらとも取れる置き方だった。

どちらとも取れるものを残されると、受け取ったほうが決めることになる。

決めるのは、いつも残されたほうだ。

その場では開けなかった。

家に持って帰って、三日置いてから開けた。

中は一枚だった。

便箋ではなく、白い紙を四つに折ったものだった。

一文だけ書いてあった。

あのことは悪かった。

それだけだった。

日付も無い。

何のことかは、書いていない。

第二章 三つ

心当たりは三つある。

三つより多くはない。

父とは、そう何度も揉める間柄ではなかった。

むしろ、揉めたのが三度しか無いから、三つとも覚えている。

三度とも、大きな声は出ていない。

父は怒鳴る人ではなかった。決めて、伝えて、終わる人だった。

終わったあとに、こちらの返事を待たない人でもあった。

待たれなかったので、こちらも返事を用意しなくなった。

その癖が、いまも残っている。

十七のときのこと。

三十のときのこと。

五十のときのこと。

この一年、都築は毎日その三つを順番に考えている。

朝の通勤で一つ、昼にもう一つ、夜に三つ目。

順番はいつも同じだ。

どれかに決まる日もある。

次の日には、また別のものに見える。

一年で、一度も決まっていない。

決められないのは、材料が足りないからではない。

三つとも、こちらの中では細部まで残っている。

足りないのは、父がどれを重いと思っていたかだけだ。

それは、こちらの中には無い。

無いものを、一年探している。

第三章 十七と三十

十七のとき、進路のことで父と揉めた。

絵を描く学校に行きたいと言った。

父は、就職しろ、と言った。

話し合いにはならなかった。

願書を出す日に、父が先に会社の面接を入れていた。

都築は行った。

行って、受かって、そこに二十年勤めた。

その二十年を、悪かったとは思っていない。

ただ、あの日、願書のほうへ行けたのかどうかは、いまも分からない。

行けたと思う日と、行けなかったと思う日がある。

六十一になっても、そこは固まらない。

固まらないものを、四十四年持っている。

三十のとき、結婚のことで揉めた。

父は相手を気に入らなかった。

理由ははっきり言わなかった。

式には来なかった。

来なかったことを、妻は一度も口に出さない。

三十年、一度もだ。

それがかえって、こちらに残っている。

妻は父の話が出ると、少しだけ黙る。

黙ってから、別の話をする。

三十年、その順番も変わっていない。

第四章 五十

五十のとき、父が入院した。

このときは、父が悪いのではない。

都築が、二週間行かなかった。

仕事が立て込んでいた。それは本当だった。

本当だったが、行こうと思えば行けた日が、二日はあった。

三週目に行くと、父はベッドで新聞を読んでいた。

顔を見て、来なくてよかったのに、と言った。

言い方が冷たかった。

こちらは、忙しかった、と言った。

父は、そうか、と言って、新聞に戻った。

その新聞を、父は最後まで読まなかったと思う。

開いたまま、しばらく持っていた。

その日のことを、都築はいちばんよく覚えている。

悪かったのは、こちらだ。

だから、あのことは悪かった、がこれを指しているとしたら、話が合わない。

合わないのに、三つのうちから外せない。

外せない理由は、父があの日の言い方を悪かったと思っていた可能性が、あるからだ。

そうだとすると、父は、こちらが悪かったことの上に自分の非を見つけて、それを謝ったことになる。

その形が、いちばん困る。

困る、というのは正確ではない。

こちらのぶんまで引き取られた、という感じがする。

引き取られると、返せない。

返せないものが、また一つ増えた。

一つ目は、五十のときに行かなかった二週間だ。

第五章 母

母は八十八で、施設にいる。

頭ははっきりしている。

夏に会いに行って、封筒のことを話した。

紙を見せた。

母は読んで、しばらく黙っていた。

それから、あの人はそういう人だった、と言った。

そういう人、というのがどういう人なのかは、言わなかった。

都築は、どれのことだと思う、と聞いた。

母は、さあ、と言った。

さあ、と言ったときの顔が、知らない人の顔ではなかった。

母は知っている、と都築は思った。

知っている人の黙り方だった。

知らない人は、もっと軽く、さあ、と言う。

母の、さあ、には重さがあった。

その重さは、三つのうちどれかを知っている重さだった。

思ったが、もう一度は聞かなかった。

聞けば、母は答えたかもしれない。

答えてしまえば、三つのうち二つが消える。

消えたほうがいいのかどうかが、分からなかった。

三つあるうちは、父がどれかで悪かったと思っていたことになる。

一つに決まると、残りの二つは父にとって何でもなかったことになる。

何でもなかった、と分かるのが、こわい。

エピローグ

紙は、いまも封筒に戻して持っている。

財布と一緒に、鞄の内側に入れてある。

一年で、四回か五回、開いて読んだ。

読んでも一文しかないので、すぐ終わる。

終わってから、また三つを順番に考える。

父は、たぶん、書けば伝わると思っていた。

書いた本人には、何のことかが分かっている。

分かっている人が書くと、こういう一文になる。

受け取るほうに三つあることを、父は考えなかった。

考えなかったのか、三つとも謝ったつもりなのかは、聞けない。

聞けない相手からの謝罪は、こちらで意味を決めるしかない。

決めないままにしてあるのは、決めるとどれか二つを捨てることになるからだ。

捨てないでおくために、毎日三つ数えている。

数えているあいだは、三つとも生きている。

生きているうちは、父もまだ、そのどれかで悪かったと思っていることになる。

死んだ人の気持ちを、こちらが毎日動かしている。

動かせるうちは、まだ終わっていない。

終わらせたくないのだと、この一年で分かった。

分かってからも、毎日三つ数えている。

数え方は、朝と昼と夜で変わらない。

変えようと思ったこともない。

変えると、どれか一つが軽くなる気がする。

ソウルミッション358

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