9_玄関の明かり
息子を言葉で追い詰めて家を出られた自分を赦した母が、毎晩玄関の明かりをつけ、ストーブの前で手を五回返すまでだけ考えてやめる。赦す側と赦される側が同じ体にいるので、量を決めて運用にする。方法だけが向かいの青年に渡る。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

朗読で聴く
第一章 框
夜の九時になると、わたしは、玄関の明かりを、つける。
わたしは五十八になる。
東北の、雪の深い町に、住んでいる。
バスの回数券の売り場に、二十九年、立っていた。
小さな窓口の、内側から、千円の券と、三千円の券を、一日に、何百枚も、売った。
いまは、町の、商店の、帳簿を、手伝っている。
家は、古い平屋で、玄関が、広い。
土間があって、上がり框があって、その奥に、廊下が続く。
天井から、丸い、白い傘の、電灯が、一つ、下がっている。
紐を、引くと、点く。
わたしは、紐を、引く。
ぱちん、と、乾いた音が、する。
それから、上がり框に、腰を、下ろす。
足もとに、小さな、電気ストーブが、置いてある。
橙色の、細い線が、二本、光っている。
わたしは、その前に、両手を、かざす。
手のひらを、温める。
おもて。
裏。
それを、五回、くり返す。
五回めの、裏を、返し終えたら、立ち上がって、もう一度、紐を、引く。
明かりが、消える。
それで、おしまいだ。
手を、かざしているあいだだけ、わたしは、息子のことを、考える。
それ以外の時間は、考えない。
八年、毎晩、している。
雪の夜は、框の木が、冷えて、足の裏が、痛い。
それでも、座る。
第二章 言葉
息子は、いま、三十になる。
わたしが、二十八で、産んだ。
夫は、息子が三つのとき、家を出ていった。
それから、わたしは、一人で、育てた。
息子は、おとなしい子だった。
成績は、良かった。
けれど、二十二のとき、勤めはじめた会社へ、急に、行かなくなった。
朝、起きて、玄関の前で、座り込んでしまう。
わたしは、回数券売り場の、勤務があった。
毎朝、七時には、家を出なければ、ならなかった。
三月ほど、毎朝、同じことが、くり返された。
ある朝、わたしは、言った。
玄関の、土間に立って、息子の背中に、向けて。
「お母さんが、誰のために、働いてると、思ってるの」
息子は、動かなかった。
わたしは、続けた。
「あなたが、そうやって、座り込んでいるあいだに、お母さんは、一日、窓口で、立ちっぱなしなのよ。何のために、育てたと、思ってるの」
息子は、小さな声で、言った。
「ごめんなさい」
わたしは、それ以上、何も、言わなかった。
息子の、肩が、震えていた。
わたしは、出勤した。
その日の夕方、帰ると、息子は、いなかった。
玄関の、框の上に、鍵が、一つ、置いてあった。
それから、八年。
年に、一度か、二度、絵葉書が、届く。
字は、息子のものだ。
元気だ、とだけ、書いてある。
住所は、書いていない。
わたしは、息子を、どこにも、探しに行かなかった。
探してはいけないと、思った。
あの言葉を、言ったのは、わたしだ。
第三章 終バス
向かいの、アパートの、二階に、若い男の人が、越してきた。
二十四、五だろうか。
町の、工場に、通っている。
夜、帰ってくると、ときどき、うちの前で、立ち止まって、挨拶をする。
その人は、毎晩、終バスの、時刻を、確かめている。
「今夜は、二分、遅れました」
「先週は、三日、遅れました」
手帳に、書いている。
わたしは、「そう」と、答える。
その人の数えているのは、バスの、遅れだ。
わたしが、数えているのは、ストーブの前で、手を、返した回数だ。
一万四千六百。
八年を、日にちに直して、五を、かければ、そうなる。
同じ道を、はさんで、二人は、まったく、別のものを、数えていた。
その人は、わたしを、夜更かしの、気の毒な人だと、思っている。
その言葉は、半分だけ、本当だ。
第四章 同じ長さ
去年の、十二月の、夜だった。
玄関の、戸を、叩く音が、した。
向かいの、青年だった。
雪を、肩に、のせていた。
「すみません。実家から、荷物が、届いて。持ちきれなくて。置かせて、もらえませんか」
わたしは、框を、空けて、箱を、受け取った。
青年は、礼を、言って、帰ろうとした。
玄関の、電灯が、点いていた。
ストーブの、橙色の線が、光っていた。
青年は、ふと、足を、止めた。
それから、言った。
「この明かり、毎晩、同じ長さで、消えますよね」
悪気は、なかった。見たままを、言った。
「ぼく、バスを、降りて、アパートの階段から、見えるんです。いつも、点いてから、消えるまで、同じです。手が、見えるんです。あったかそうだなあと、思ってました」
わたしは、「そう」と、答えた。
青年は、それから、すこし、黙っていた。
その肩の雪が、玄関の土間で、溶けはじめていた。
「実は、荷物、実家の、父からなんです」
わたしは、動かなかった。
「三年、口を、きいてないんです。ぼくが、悪いんだと、思います。荷物の中に、手紙が、入ってるかも、しれなくて。開けるのが、怖くて」
わたしは、息子の背中を、思い出した。
玄関の土間に、座り込んでいた、あの、肩の、震えを。
言いかけた。
あの朝、わたしが、何を、言ったか。
喉のところまで、来ていた。
言わなかった。
第五章 渡した
言えば、青年は、わたしの話に、耳を、傾けるだろう。
けれど、それで、青年が、父親の手紙に向き合う力を、すり減らしてしまう気がした。
それに、わたしの八年を、ここで使って、青年を軽くしようとするのは、順番が、違う。
だから、わたしは、こう言った。
「手を、温めなさい。ここで。ストーブの前で、おもて、裏、と五回、返す。そのあいだは、お父さんの手紙のことを、考えていい。五回、返したら、やめるの」
青年は、目を、丸くした。
「それだけ、ですか」
「それだけよ」
理由は、言わなかった。
青年は、框に、腰を、下ろした。
ストーブの前に、手を、かざした。
おもて。裏。
わたしは、その背中を、黙って、見ていた。
五回め。
「ありがとうございます」と、青年は、言った。
立ち上がった青年の、顔が、すこし、ゆるんでいた。
箱は、置いていかなかった。両手で、抱えて、雪の道を、帰っていった。
わたしは、息子を、赦している。
いや、息子に、赦されるべきは、わたしだ。
わたしが、赦すのは、自分のほうだ。
あの朝の、わたしを。
赦しているのは、本当だ。
赦したのだから、框に、座らなくても、よくなるだろうと、思っていた。
赦せば、痛みも、終わるのだと。
でも、そうではなかった。
赦したのに、まだ痛い。
赦す人と、赦される人が、別々にいるなら、片方が済ませれば、それで、終わる。
けれど、自分を赦す場合は、その二人が、同じ体の中にいる。
片方が赦しても、もう片方が、そこで、一緒に、聞いている。
手続きは、いつまでも、完了しない。
考えないでいれば、赦したことにならない。
考え続ければ、窓口に、立てなかった。
だから、手を、五回、返すまでと、決めた。
量を決めることは、赦しの、かわりでは、ない。
けれど、自分への赦しは、そういう形でしか、続かない。
痛みの、量は、減らない。
減ったのは、息子が、いつか、玄関の戸を、開けて、入ってきて、あの朝を、なかったことにしてくれるかもしれない、という、期待のほうだけだ。
方法は、あの夜、わたしの口から、青年の、手のひらへ、渡った。
理由は、言わないまま。
エピローグ
夜の九時。玄関の紐を、引いた。
ぱちん、と、音がして、丸い傘の下が、白く、明るくなった。
框に、腰を、下ろす。
ストーブの前に、両手を、かざす。
おもて。裏。
八年前の、あの朝の、土間から、順番に、思い出す。
五回めの、裏を、返し終えた。
立ち上がって、紐を、引く。
明かりが、消える前に、向かいの、アパートの、二階の窓を、見た。
窓の、明かりが、ついていた。
わたしは、玄関の戸の、内側の鍵を、今夜も、掛けずに、そのまま、廊下へ、上がった。
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