8_三度の水
妹の手紙を竈に燃やした自分を赦した女が、毎夕米を研ぐ三度の水替えの間だけ考えてやめる。赦す側と赦される側が同じ体にいるので、量を決めて運用にする。方法だけが姪に渡る。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

朗読で聴く
第一章 米研ぎ
夕方の五時になると、わたしは、米を研ぐ。
わたしは六十四になる。
瀬戸内の、小さな島に、生まれて、ずっと、ここで暮らしている。
島の港の近くで、洋品店を、四十年、営んでいた。
去年、店を、閉めた。
いまは、二階の、小さな台所で、一人分の食事を、作る。
お米は、一合。
流しの下から、白い、プラスチックの桶を、出す。
ふちが、茶色く、染まっている。
三十年、使っている。
その桶に、米を、入れる。
蛇口から、水を、入れて、右手で、かき混ぜる。
一度めの水は、すぐ、白く濁る。
それを、手で、受けながら、流しに、捨てる。
二度めの水を、入れる。
濁りは、少し、薄い。
捨てる。
三度めの水を、入れる。
このときだけ、わたしの手は、止まる。
水の中の、米粒が、底で、小さく、鳴る。
わたしは、桶の中を、じっと、見る。
そして、あのことを、考える。
妹のことだ。
三度めの水を、捨てるまで。
それが、終わったら、もう、考えない。
水を、切って、炊飯の鍋に、移す。
毎日、そうしている。
二十六年、している。
三度めの水で、手が止まることに、気づいている人は、いない。
第二章 手紙
妹は、わたしより、三つ下だった。
おとなしい子で、貝殻を、拾うのが好きだった。
島の、浜に、出ては、白い貝を、ポケットいっぱいに、持ち帰った。
わたしが十七、妹が十四の冬だ。
妹に、本土の町から、手紙が、届いた。
夏に、親戚の家へ行ったとき、仲よくなった、男の子からだった。
妹は、その手紙を、毎日、読み返した。
小さな缶に、しまって、枕の下に、置いていた。
その冬、わたしは、気が立っていた。
進学したかったのに、家の事情で、諦めたばかりだった。
妹は、何も、諦めていないように、見えた。
ある晩、些細なことで、言い争いになった。
何が、原因だったかは、覚えていない。
わたしは、妹の枕の下の、缶を、取り出した。
手紙が、三通、入っていた。
わたしは、それを、台所の、竈に、くべた。
妹は、その場に、いた。
何も、言わなかった。
紙が、燃える間、立ったまま、見ていた。
それから、小さな声で、「そう」と、だけ、言った。
わたしは、翌朝に、謝ろうと、思った。
けれど、言えなかった。
そのまま、一日、また、一日と、延びた。
妹は、そのことを、二度と、口にしなかった。
妹は、わたしが三十八のとき、病気で、亡くなった。
三十五だった。
最後の入院のとき、わたしは、毎日、見舞いに行った。
妹は、ほほえんで、迎えてくれた。
あの手紙のことは、とうとう、一度も、話さなかった。
妹が、わたしを、赦したのか、赦していなかったのか、知る方法は、もう、ない。
第三章 水加減
妹の娘が、島に、戻ってきた。
四十になる。
夫と別れて、高校生の息子を連れて、母の実家であるこの家の、一階に、住んでいる。
毎日、夕方になると、階段の下から、声をかけてくる。
「叔母さん、今日の、お米の水加減、どうでしたか」
妹の娘は、炊飯の水の量を、きちんと、はかる人だ。
お米に対して、一・二倍。季節によって、少し、変える。
冬は、すこし、少なめ。
「手でなく、目盛りで、はかるのが、確実ですよ」
わたしは、「そうね」と、答える。
妹の娘の数えているのは、水の、量だ。
わたしが、数えているのは、三度めの水で、手が止まった、夜の数だ。
九千五百と、少し。
二十六年を、日にちで割れば、そうなる。
同じ台所の、階段を、はさんで、二人は、まったく、別のものを、数えていた。
妹の娘は、わたしを、手際のいい人だと、言う。
その言葉は、半分だけ、本当だ。
第四章 十秒
去年の、二月の、夕方だった。
妹の娘が、二階に、上がってきた。
芋を、煮たのを、持ってきてくれた。
台所で、わたしが、米を研ぐのを、後ろで、見ていた。
一度め、二度め、三度め。
わたしの手が、三度めで、止まった。
しばらく、そのままだった。
妹の娘が、言った。
「叔母さん、三度めの水のときだけ、いつも、手が止まりますね」
悪気は、なかった。見たままを、言った。
「十秒くらい。いつも、同じ長さです。母が、鍋を見ていたときと、似ています」
わたしは、「そう」と、答えた。
水を、捨てた。
妹の娘は、芋の鉢を、卓に、置いた。
それから、小さな声で、言った。
「叔母さん。どうして、毎日、同じ時間に、お米を、研ぐんですか」
わたしは、桶を、流しに、立てかけた。
しばらく、黙っていた。
手紙のことを、言いかけた。
喉のところまで、来ていた。
言わなかった。
第五章 渡した
言えば、妹の娘は、母の知らなかった一面を、知ることになる。
けれど、それは、わたしが、軽くなるためだけの、告白だ。
それに、妹の娘は、いま、自分のことで、手一杯だ。
だから、わたしは、こう言った。
「三度めの水を、捨てるまで、考えていいの。捨てたら、やめるの。そう、決めてあるのよ」
妹の娘は、首を、かしげた。
「何を、ですか」
「いろいろ、よ」
理由は、言わなかった。
妹の娘は、少し、考えて、それから、エプロンの、ポケットから、小さな、メモを、出した。
鉛筆で、「三度めの水まで」と、書いた。
それを、冷蔵庫の扉に、貼った。
わたしは、妹を、赦している。
それは、本当だ。
妹は、わたしを、責めなかった。
わたしが、妹の立場なら、責めただろうと、思う。
赦したのだから、水を見て、止まる手も、そのうち、なくなるだろうと、思っていた。
赦せば、痛みも、終わるのだと。
でも、そうではなかった。
赦したのに、まだ痛い。
赦す相手は、もう、いない。
妹は、赦すとも、赦さないとも、言わないまま、死んでしまった。
そして、赦してもらいたいのも、また、わたしだ。
赦す人と、赦される人が、別々にいるなら、片方が済ませれば、それで、終わる。
けれど、自分を赦す場合は、その二人が、同じ体の中にいる。
片方が赦しても、もう片方が、そこで、一緒に、聞いている。
手続きは、いつまでも、完了しない。
考えないでいれば、赦したことにならない。
考え続ければ、店が、開けられなかった。
だから、三度めの水までと、決めた。
量を決めることは、赦しの、かわりでは、ない。
けれど、自分への赦しは、そういう形でしか、続かない。
減ったのは、あのとき、ああしなければ、という、期待のほうだけだ。
二階の窓から、階段の下の、妹の娘の、足音を、聞いた。
方法は、わたしの中から、あの子の、冷蔵庫の扉へ。
理由を、言わないまま、渡っていた。
エピローグ
夕方の、五時。台所で、桶に、米を、入れた。
一度めの水を、捨て、二度めの水を、捨てる。
三度めの水を、入れた。
手が、止まって、わたしは、桶の中の、小さな、白い音を、聞いた。
浜の、白い貝を、ポケットいっぱいに、持ち帰った、妹の背中から、あの冬の晩まで、順番に、思い出す。
水を、捨てた。
冷蔵庫の扉の、鉛筆の、メモの横を、過ぎて、鍋に、米を、移した。
階段の下の、妹の娘に、「今夜は、炊き込みにするけど、食べる?」と、声をかけた。
あなたの魂のテーマに気づく場所