7_湯が沸くまで
病む母を置いて嫁ぎ、母を一人で死なせた自分を赦した女が、毎晩薬缶の湯が沸くまでだけ考えて火を止める。赦す側と赦される側が同じ体にいるので、量を決めて運用にする。方法だけが姪に渡る。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

朗読で聴く
第一章 薬缶
夜の八時になると、わたしは、台所の、薬缶に、水を入れる。
わたしは七十一になる。
山陰の、小さな町に、五十年、住んでいる。
小学校の給食室で、二十八年、働いた。
何百人ぶんの味噌汁を、毎日、大きな釜で、煮た。
いまは、一人で、古い家に、暮らしている。
台所の、ガスの火の上に、白っぽい、アルミの薬缶が、載っている。
蓋の、つまみが、黒く焼けて、片方の取っ手は、もう、ぐらぐらしている。
四十年、使っている。
水を入れて、火をつける。
青い火が、薬缶の底を、なめる。
それから、わたしは、椅子に、座る。
台所の、小さな丸椅子だ。
薬缶は、ゆっくり、温まる。
最初は、底のほうで、細かい泡が、立つ。
それから、ちりちり、と、鳴りはじめる。
その音を、聞きながら、わたしは、あのことを、考える。
母のことだ。
若い日のことを、順番に、思い出す。
湯が、沸く。
薬缶の口から、湯気が、出る。
しゅう、と、細い音が、立つ。
その音が、立ったら、立ち上がって、火を、止める。
それで、おしまいだ。
考えるのは、そこまでだ。
きりのいいところまで、とは、考えない。
湯が沸いたら、思い出していても、途中で、やめる。
それを、毎晩、している。
四十年、している。
薬缶の湯で、お茶を入れて、一杯だけ、飲んで、寝る。
第二章 手紙
母は、わたしが二十二のとき、一人で、死んだ。
父は、わたしが小さいときに、亡くなって、母が、一人で、わたしを育てた。
縫い物の、内職で、わたしを、短大まで、やってくれた。
卒業して、すぐに、結婚した。
相手は、隣の県の、農家の、長男だった。
遠い町へ、嫁いだ。
母は、駅まで、見送ってくれた。
駅で、小さく、手を、振った。
母は、そのころ、胸を、悪くしていた。
長く、咳が、止まらなかった。
それを、わたしは、知っていた。
嫁いで、半年がたった春、母から、手紙が、来た。
字が、震えていた。
「ちょっと、体が、弱っています。顔を、見せに、来られませんか」
それだけだった。
わたしは、返事を、書いた。
「今は、田植えで、手が、離せません。田植えが、終わったら、行きます」
田植えは、一か月、続いた。
義母は、厳しい人だった。
嫁が、田植えの最中に、実家へ帰るなど、考えられないことだった。
わたしは、言い出せなかった。
田植えが、終わって、荷物を、まとめて、電車に乗った。
家に、着いたとき、母は、もう、起きなかった。
近所の人が、見つけてくれたのだと、あとで、聞いた。
亡くなって、三日、たっていた。
布団の中で、横を向いて、眠っているような、顔だった。
枕もとに、わたしの返事が、広げて、あった。
何度も、読み返したのだと、わかった。
紙の、折り目が、擦り切れていた。
わたしは、それから、一年ほど、泣かなかった。
第三章 夜泣き
隣の家に、姪が、嫁いできた。
夫の弟の、娘だ。
三十になる。
一歳の男の子が、いる。
「叔母さん、昨夜は、七回、起きました」
姪は、朝、庭で、洗濯物を、干しながら、言う。
手帳に、夜泣きの回数を、書いている。
「先週は、五回だったんです。増えたんです」
わたしは、「そうなの」と、答える。
姪の数えているのは、赤ん坊の、夜だ。
わたしが、数えているのは、薬缶の湯が、沸くまでの、夜の数だ。
一万四千と、少し。
四十年を、日にちで割れば、そうなる。
同じ庭の、垣根をはさんで、二人は、まったく、別のものを、数えていた。
姪は、叔母のことを、規則正しい人だと、言う。
その言葉は、半分だけ、本当だ。
第四章 火のほうへ
去年の、十一月の、はじめだった。
姪が、夜に、うちへ、来た。
赤ん坊が、やっと、眠ったので、少し、抜けてきたのだと、言った。
顔色が、悪かった。
台所の、丸椅子に、座らせた。
わたしは、薬缶を、火にかけた。
いつもの、時刻だった。
姪は、黙って、わたしの手元を、見ていた。
薬缶が、鳴りはじめた。
わたしは、いつものように、立って、そばに、いた。
湯気が、立った。
わたしの手が、火のほうへ、伸びた。
姪が、言った。
「叔母さん、湯が沸く前に、必ず、手が、火のほうへ、行きますね」
悪気は、なかった。見たままを、言った。
「いつも、お茶を、いただくとき、気づいてました。沸く、ほんの少し、前に、もう、手が」
わたしは、「そう」と、答えた。
火を、止めた。
姪は、それから、しばらく、黙っていた。
湯呑みに、お茶を、入れて、渡した。
両手で、包んで、姪は、小さい声で、言った。
「昨日の夜、大きな声を、出してしまったんです。あの子に」
わたしは、動かなかった。
「泣きやまなくて。三十分、抱いても。ひどい声を、出してしまって。そのあと、あの子が、びっくりした顔で、わたしを、見て」
姪は、湯呑みを、持ったまま、うつむいた。
わたしは、母の手紙の、折り目を、思い出した。
言いかけた。
わたしにも、あった、と。
喉のところまで、来ていた。
言わなかった。
第五章 渡した
言えば、姪は、楽になるだろう。
けれど、楽になるのは、そのあと、わたしのほうだ。
自分の四十年を、ここで使って、姪を軽くしようとするのは、順番が、違う。
それに、叔母もそうだったと知ってしまったら、姪は、自分のことを考える代わりに、叔母のことを、考えはじめる。
だから、わたしは、こう言った。
「湯を、沸かしなさい。沸くまでは、考えていい。沸いたら、火を止めなさい」
姪は、顔を上げて、笑った。
「何、それ。叔母さんの、やり方?」
わたしは、「いいから」と、だけ、言った。
理由は、言わなかった。
姪は、少し、困った顔で、頷いた。
帰っていく背中を、見送りながら、わたしは、考えた。
わたしは、母を、赦している。
それは、本当だ。
母は、わたしを、責めなかった。
手紙にも、責める言葉は、なかった。
赦したのだから、薬缶の前に座るのも、そのうち、やめられるだろうと、思っていた。
赦せば、痛みも、終わるのだと。
でも、そうではなかった。
赦したのに、まだ痛い。
赦す相手は、とうに、いない。
母は、赦すとも、赦さないとも、言わないまま、死んでしまった。
そして、赦してもらいたいのも、また、わたしだ。
赦す人と、赦される人が、別々にいるなら、片方が済ませれば、それで、終わる。
けれど、自分を赦す場合は、その二人が、同じ体の中にいる。
片方が赦しても、もう片方が、そこで、一緒に、聞いている。
手続きは、いつまでも、完了しない。
若いころは、考えないでいようと、した。
けれど、考えないでいる夜ほど、手紙の字の、震えが、濃く、浮かんだ。
それなら、考え続ければ、いいのかと、思った。
それも、できなかった。
考え続けると、翌朝、釜の前に、立てなかった。
だから、湯が、沸くまでと、決めた。
それで、わたしは、四十年、立っていられた。
量を決めることは、赦しの、かわりでは、ない。
けれど、自分への赦しは、そういう形でしか、続かない。
母を、見送れなかった、手の、痛みは、減らない。
減ったのは、あのとき、ああしていれば、という、期待のほうだけだ。
あの夜、姪の背中を、見送りながら、もう一つ、気がついた。
母も、あの手紙を、書いた夜、台所で、薬缶に、湯を、沸かしていたはずだ。
わたしは、そのことを、四十年、思いださなかった。
方法は、母から、わたしへ、そして、いま、姪へ。
理由を、言わないまま、渡っていた。
エピローグ
夜の八時。台所の、丸椅子に、座る。
薬缶に、水を、入れて、火を、つけた。
青い火が、底を、なめる。
泡が、立ちはじめて、ちりちりと、鳴った。
わたしは、あの春の、駅の、母の、小さな手を、順番に、思い出した。
しゅう、と、細い音が、立った。
立ち上がって、火を、止めた。
窓の外の、隣の家の、明かりが、まだ、ついていた。
わたしは、二つの湯呑みに、お茶を、入れて、一つを、盆にのせて、勝手口から、隣へ、運んだ。
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